2014年10月19日日曜日

【イエス行動論31】 弟子の覚悟 マタイ8:18~22

弟子の覚悟 マタイ8:18~22

イエスに「従う」とはどういうことか。















 聖句要点引用

19節、律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります。」と言った。
20節、イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
21節、弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください。」と言った。
22節、イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」

 共に分析

 イエスの用いられる比喩とその動機を学びましょう。
 この聖句の本質は「第一に神の国と神の義を求める」ことです。
 はっきり言いますが、この聖句箇所はイエスに従うとはどういうことか、非常に厳しく語られたものです。非常に厳しい。なので、まだ信仰が強くない兄弟姉妹はつまずきを覚えるかもしれないことを、前もって言っておきます。
 イエスは比喩やたとえを良く用います。20節、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」も比喩です。慈愛と憐れみに満ちたイエスなら、19節に見られる律法学者の一大決心と悔い改めをほめられたと思うのが普通ではないでしょうか。イエスの迫害・非難する律法学者の他に、イエスに真理を見いだし、救いを求めた律法学者もいました。律法における生き方からイエスにおける生き方へと転換したのです。
 律法学者の告白に対するイエスの受け答えは厳しいものです。20節、イエスの弟子として、従うことを望む者は、イエスと同じ「枕する所」のない生き方を覚悟しなさいと言いました。「枕する所」は寝る所、家、安心できる所です。イエスとわたしたち神の子の「枕する所」とは神の御国です。そのような安心できる所が、この世にはないと言ったのです。つまり、この世に置いて、「枕する所」がないということは、この世のあらゆる煩いに優先して、神の国と神の義を求めることなのです。イエスはこのように、厳しく応答されました。
 22節、これもまた、非常に厳しい言葉です。親を敬うことが律法となっているユダヤ教徒の常識を完全に打ち砕くものです。わたしたちの常識をも打ち砕くものでしょう。親が亡くなったときに、葬り弔いをするのは子の義務であり自然な心ではないでしょうか。しかし、イエスは、22節、「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」と言われ間ました。
 ではなぜ、イエスはこれほどまでに厳しい言葉を律法学者に、弟子にしたのでしょうか。律法学者の悔い改めを受け入れず、弟子に葬りを許可せず、意気消沈させるためでしょうか。イエスは慈愛と憐れみの方です。イエスは誰よりも、わたしたちが救われることを喜ばれます。真に救われてほしいがために、本当のことを言ったのです。良薬は口に苦しです。イエスは真理を語ります。それは神の御心であり、神の御計画です。律法学者は、イエスに従うことの重みを、その生き方や犠牲などを、少し軽視したかもしれません。弟子は、神の子である前に、肉の子を優先したのかもしれません。ある程度習熟し、真理を受け取ることのできる兄弟姉妹には、このように真理を飾らず、そのまま伝えることで、真の救いをすすめられました。

 イエス行動論要約

 イエスに従うことの重みを「枕する所」のない比喩で説明されました。第一に神の国と神の義を求めるよう、厳しく言われました。それは、慈愛と憐れみによる、本物の真理です。

 今日の試み

 今回共に分析しました聖句箇所は、前述のとおり、厳しいものです。裏を返せば、わたしたしの常識や日々の振舞が、イエスのと比べ、大きいへだたりがあると言えます。
 わたしたちは、兄弟姉妹を愛し、なぐさめ、ねぎらいます。「クリスチャンとしてイエスの道を歩くのはものすごい覚悟が必要だ。」まだ信仰的に強くない兄弟姉妹にはつまずきとなります。信仰的に強められた兄弟姉妹には悔い改めと決心を促します。わたしたちは、賢く、兄弟姉妹の信仰に応じて、愛を持って真理を伝える必要があるのです。「信じると言うだけで救われる」「信じると祈れば苦しみは起きない」など、部分的な真理を含む言葉は、信仰が強められることによって徐々に何が本質か否か分かるようになります。
 相手を考慮したはげましの言葉も、改めさせる厳しい言葉も、深い慈愛と憐れみから来ることを忘れないでください。第一に神の国と神の義を求めましょう。

兄弟姉妹のみなさん、一人一人を愛します。
ありのままのあなたを愛します。I love you.
神の栄光をほめたたえます。ハレルヤ!^0^
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2014年10月18日土曜日

【イエス行動論30】 多くの病人をいやす マタイ8:14~17

多くの病人をいやす マタイ8:14~17

イエスの「正しさ」


















 聖句要点引用

14節、イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。
15節、イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がって、イエスをもてなした。
16節、夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。
17節、それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」

 共に分析

 イエスの確信、正しさ、使命の本質を学びましょう。
 本質は「第一に神の国と神の義を求める」ことです。
 15節、「その手に触れられる」とあります。イエスはパウロのしゅうとめの手に触れました。この単純な動作の中にも、大変な信仰が認められるのではないでしょうか。わたしたちも病院や家にお見舞いすることがあります。お土産を手に、ねぎらいとなぐさめを目的に向かいます。しかし、その手に触れて、病気を治すことなど、考えたことも、行ったことなどないと思います。明日手術が行われるとする人に、その場で治ると信じて触れることはないと思います。まして、16節、言葉でいやしを行うことなど、滅多にありません。イエスの清い信仰が見られます。
 イエスの信仰は、行動はなぜ正しいのでしょうか。なぜ、義なのですか。17節、預言に基づいた信仰、行いであるからです。これまで、正しさや義とは、神の御心に適うことであることを共に分析してきました。預言とは、神の御心、神の御計画の表れです。神から「預かった」「言葉」であるから、預言なのです。そして、イエスは神の御心を「完璧」に適うよう行いをされました。裏を返せば、神以外の何かに頼ったことが一時もないと言えます。
 イエスの使命の本質は「十字架による救い」です。十字架で救いを完成させるまでは、教えやいやしなどで救われます。正直に言って、大方の人は、14節、汗ばんだ年寄りの手など触りたくなく、16節、悪霊に取りつかれた狂暴・危険な人と関わりたくないでしょう。しかし、イエスはその人々こそ救われる必要があると神中心的に考え、使命の任務を遂行しました。「正しい」こととは、世の常識と異なる場合が大いにあるのです。

 イエス行動論要約

 イエスの信仰と行いは完全です。完璧に、神の御心に適っているからです。神の御言葉の表れである預言を成就する使命を基に、完璧に任務を遂行されます。

 今日の試み

 要約を見て分かると思います。救いの道へ進むためには、神の御心に適う信仰と行いが必要ということです。イエスへの預言があったように、わたしたちへの預言があったかどうか学ぶ理由がここにあるのです。聖書を読み理由も神の御心に適うためです。
 先日、大学構内で、電車やバスを利用するときに使うSuica(ICカード)を失くしました。1000円ごとしかチャージしませんが、学生にとっては痛手です。次の日に、事務室の窓口に向かいました。届けられていたので、取り戻すことができました。
 わたしが喜んだのは、Suicaが戻ったことより、自分の信仰が強められたことです。わたしのSuicaは無記名の物で、誰かが拾ったとしても、届けないだろうと考えました。しかし、神に、届けられていると信じます、すべては神の御計画どおりにと祈りました。窓口に行く前からすでにSuicaは手元にあるかのように考えました。はたして、ありました。
 神ならばしてくださるだろうと信じ、すでに与えられたと考える、これが、昨日の記事でも書きました、信仰ではないでしょうか。もちろん、神の御計画によってです。Suicaがなかったとしたら、それが神の御計画であるとはっきり分かるのです。
 このように小さなことでもよいので、毎日神の御心に適う信仰を求めてみましょう。
 
兄弟姉妹のみなさん、一人一人を愛します。
ありのままのあなたを愛します。I love you.
神の栄光をほめたたえます。ハレルヤ!^0^
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2014年10月17日金曜日

【イエス行動論29】 百人隊長の僕をいやす マタイ8:5~13

百人隊長の僕をいやす マタイ8:5~13

主イエスの「救い」














 聖句要点引用

5節、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、
6節、「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。
7節、そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。
8節、すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。
9節、わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
10節、イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。
11節、言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。
12節、だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
13節、そして百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。

 共に分析

 イエスにより神中心的な行い、喜びの分かち合いと預言を学びましょう。
「百人隊長の僕をいやす」の本質は「第一に神の国と神の義を求める」ことです。
 イエス行動論は文字通りイエスの行動に焦点を当てます。しかし、イエスを感心させて百人隊長の信仰が非常に重要なので、少し言及します。先に結論から言うと、百人隊長の信仰には二つの特筆すべき特徴があります。一つ目は、へりくだり、二つ目が、確信です。当時イスラエルはローマ帝国に支配されていましたので、ローマの百人隊長であったと考えるのが定説となっています。イスラエルの民からすれば、権威のある支配者であり、異邦人であったのです。イエスに「懇願」する行為自体が、百人隊長に相当なへりくだりを要することでありました。支配者である己のプライド、民族的対立などを捨て去って、イエスに寄り頼みました。
 二つ目は、8節に見られる、信仰の確信です。言葉一つで、患部に触らずとも病気がいやされると確信しています。イエスが喜ばれたこの信仰を見事に説明している御言葉がありますので、紹介します。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」(ヘブライ人への手紙11:1~2)百人隊長は、僕が必ずいやされることを確信し、既にいやされたものと確信しました。イエスが感心されたこの信仰はすばらしいものであり、わたしたちの道標となります。
 イエスは、百人隊長の願いを受けて、7節「わたしが行って、いやしてあげよう」と言います。これは、時間を持て余していた、ローマの百人隊長が珍しかったなどのような理由から言ったものではありません。神の御心に適うよう、神の御計画に基づいて、正しいことを行うことが本質です。神の御心によるイエスの使命は「救い」です。神によって与えられた使命を忠実に、首尾一貫として行う姿が見られます。
 10節、イエスの「救い」の本質は罪の贖いです。その意味で考えると、真に救われたのは百人隊長の僕というより、百人隊長自身であると思います。自分自身の罪深さと神の御業を確信しているからです。10節で、従っていた人にその信仰について教えることで、弟子たちや群集が自分自身の罪深さと神の御業を確信することができるよう、「救い」の働きかけをされているのです。イエスは、百人隊長、その僕、従っている人々、全員に「救い」を行っています。
 11節、イエスは異邦人の救いを、12節、イスラエル民の裁きを、預言されています。神の御心を熟知し、真理を教えています。真理を正しく理解することが、信仰の土台となり、糧となるからです。信仰の種まき、成長を支えるのは神の御言葉であります。
 13節、イエスは懇願に答えました。その言葉の選び方がすばらしいです。「あなたが信じたとおりになるように」です。イエスはいやしをする前に、必ず人の信仰を見られます。信仰が最優先されるからです。

 イエス行動論要約

 百人隊長の信仰には、へりくだりと確信がありました。イエスは神の御心に適うよう行動されます。イエスの「救い」という使命を果たすために、いやしを与え、人々に信仰を教え、預言されました。

 今日の試み

 10節「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」ことから明らかなことに、ほとんどの人は、信仰が薄い、あるいはまったくない者です。百人隊長の確信、イエスの確信を前に、自分自身の罪深さを自覚し、へりくだることが重要です。真に、へりくだることで、イエスの十字架を心から感謝することができ、確信することができます。
 兄弟姉妹のみなさん、あなたは罪人ですか?
 
ブログ訪問、ありがとうございました。
神の栄光をほめたたえます。ハレルヤ!^0^
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