2015年1月30日金曜日

【イエス行動論48】 受け入れる人の報い マタイ10:40~42

受け入れる人の報い マタイ10:40~42

主イエスによる、伝道者への御言葉。

 聖句要点引用

40節、「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。
41節、預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。
42節、はっきり言っておく。わたしの弟子であるという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。

 共に分析

 イエスの教え方とその本質を学びましょう。
 イエス行動論では、文字通り主イエスの行動に注目します。
 わたしたちクリスチャンは、主イエスとともに十字架を背負い、霊的に主イエスに近づく信仰生活を送るよう努力し、願っています。
 わたしが主イエスであったら、弟子たちにどのように教えたのか、と思考を巡らすのは、有益であります。
 今日の御言葉のキーワードは「受け入れ」と「報い」であり、その本質は、「喜びを持って神中心的に生きる」ことであると信じます。
 「受け入れ」と「報い」を、弟子たちに教えられた動機を考えると、主に二つあると考えます。この御言葉は、弟子たち、伝道をする者としては感謝しきれない、感動の御言葉です。一つに、伝道の使命感と正統性を確信するからです。伝道は、やってみると痛いほどわかりますが、非常に困難です。相手に、これまでの行いの悔い改めをどこかで要求することになるので、それへの反発・拒否反応が起こるからです。つらいことが起きると、人はそもそもなぜ伝道をしたのかと自問し、原点回帰します。その問いへの答えを、主イエスが今日の御言葉で教えられているのです。それはつまり、40節にあるように、弟子たちの伝道が、主イエスと神と有機的につながっていること、伝道を受け入れる人には必ず報いがあることです。弟子たちの伝道を受け入れることが、主イエスを受け入れることであり、さらに神を受け入れることであるということは、弟子たちの伝道が正しく、真理に基づくことを表します。これ以上のお墨付き・太鼓判はありません。まさに、神の御使いとして働くことのできる栄光を噛みしめたはずです。
 二つに、報いが約束されることによる、伝道の喜びです。41/42節より、伝道を受け入れる人は必ず報いを受けることが約束されています。伝道を行う者として、報いが保障されているのは、とてうもない励みとなり、喜びにつながります。多くの人に報いを届ける働きには大きな喜びがあるのです。
 では、「受け入れる」とは何でしょうか。
 42節に答えがあります。ポイントは”わたしの弟子であるという理由”です。
 お冷を出すことは一つの例であり、その自体に何かの意味があるとは思えません。
 ”イエスの弟子、使いだからお冷を出そう”-これが「受け入れる」ことです。
 伝道している人たちを主イエスの弟子、使いであると認識し、彼らの福音を聞き、受け入れ、愛を持って彼らに接する-この全体的なプロセスが「受け入れる」ことであると信じます。

 イエス行動論要約

 イエスは、伝道者のために、伝道の使命に正統性を与え、その喜びを報いで教えられました。

 今日の試み

 縁あって、私は今日モルモン教信仰者の友達と会う約束をしています。電車の駅で「こんにちは」と話かけられたのが接点でした。わたしは「真理」に並ならぬ関心を持っていて、いつも「真理」を追い求めていますから、彼の話は大変興味深いものでした。シンガポールからはるばる日本に宣教師として来た彼は、神の子に見られる、輝きがありました。目に輝きがあったのです。
 家に帰って、パソコンを開いてモルモン教について調べてみると、大方異端視されていること、2012年度米国大統領選挙でオバマと競ったミット・ロムニー候補者がモルモン教徒であることなどがわかりました。それまで、「モルモン教」という単語を知っているだけで、何を信じていて、何が異端視されているのかきちんと考えていませんでした。
 クリスチャンとして、まず神にお祈りを捧げ、愛を持って彼に接していきたいと思います。もしかしたら、わたしが知らないだけで、モルモン教が神様の目から見て正しく、真理なのかもしれない、と考える謙虚さを持って、その真理のほどを確かめたいです。
 今日の御言葉から学んだように、まずは、彼を「受け入れる」のです。

兄弟姉妹のみなさん、一人一人を愛します。
ありのままのあなたを愛します。I love you.
神の栄光をほめたたえます。ハレルヤ!^0^
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2015年1月29日木曜日

【イエス行動論47】 平和ではなく剣を マタイ10:34~39

平和ではなく剣を マタイ10:34~39

イエスの愛の厳しい教え。














 聖句要点引用

34節、「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
35節、わたしは敵対させるために来たからである。人はその父に、娘は母に、嫁はしゅうとめに。
36節、こうして、自分の家族の者が敵となる。
37節、わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
38節、また、自分の十字架に担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。
39節、自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。

 共に分析

 イエスの教え方とその本質を学びましょう。
 
 言うまでもなく、今日の御言葉は非常に厳しいものです。愛する家族との敵対、十字架を背負う人生は、とても厳しい要求です。他の教えよりも誤解されやすい御言葉なので、普段より文字数を多くしています。
 イエスの行動に着目してみると、その教え方に愛が垣間見えます。このような厳しい教えを聞いた弟子たちと群衆は、どう受け止めたでしょうか。その教えに賛同する者もいれば、反発したり、つまずきを覚えた者もいるでしょう。自己中心的な人間の自然の反応からすると、後者が圧倒的ではないでしょうか。大半は、心の中で「家族との敵対?自分の命を失う?そんなことできるわけないだろう」と思ったはずです。現代では、この聖句箇所を指してキリスト教の暴虐性を問題提起する者もいます。厳しい教えによって、主イエスに敵対する者が生じるリスクがあるのです。このように、つまずきが起きることを知りつつも、教えられた理由は何でしょう。
 弟子たちを、群衆を心底憐れに思い、真に愛されたからこそ、真理の言葉を教えられたのです。本当に人間のことを思うからこそ、一般受けしない、耳に痛い真理をも躊躇せずに伝えたのです。「すべて平和だよ。家族とも平和があり、自分の命を失う、十字架を背負う必要もないよ」といった、甘やかしは無責任極まりない教えです。人が聞きたがる教えではなく、真に聞くべき教えを伝える主イエスの愛と勇気を学びましょう。
 
 この御言葉の本質は何でしょう。
 間違っても、「家族と敵対せよ」「自分の命を投げ捨てよ」と勘違いしてはなりません。
 この御言葉の本質は、「第一に神の国と神の義を求めなさい」であると信じます。
 御言葉の要点を二つに分けて共に分析しましょう。
 一つ目、愛する家族との敵対です。
 これは、最も重要ななものよりも神様を優先しなさい、との教えです。罪深いこのこの世において、主イエスの信仰への反発はごく自然なものです。その中には、主イエスの信仰を受け入れる人たちと、信仰を拒む人たちがいます。その境目が、家族の中にあるとき、信仰が最も試されます。自分の親、兄弟、子ども、親族に大反対され、恨まれても主イエスを求め続けられるか。すなわち、自分にとって大切なものを捨てても、主イエスを愛し、求められるか。それが問われているのです。自分の信仰が完全なものか、条件付きのものか、判断できる試練です。救いは、実に狭き門なのです。核家族化が進み、徐々に家族との絆が希薄化している現代人にとっても、家族は代えがたい存在だから、試練となり得るのです。

 二つ目、十字架を背負う人生です。
 これは、自分よりも神様を優先しなさい、との教えです。
 一つ目は家族を諦めることでしたが、今度は自分を諦めることです。
 クリスチャンの究極的葛藤は、己vs神にあります。自己中心vs神中心です。
 「命を失う」とは、自殺ではなく、自分の自己中心、不信仰を捨てることを意味します。十字架の血潮によって罪を赦され、新しく生まれ、神中心になることで、「命を得る」のです。
 自分が最もかわいく、自らの生存・保身・私利私欲・幸せ・快楽のために生きるのではなく、そこから転じて、神がもっとも偉大で、神の栄光を高めるために生きるのです。この、神の栄光を高める道が、「十字架を背負う人生」です。この世の富・地位・名誉・快楽などの誘惑との戦い、伝道時に受ける迫害・差別・冷やかしとの戦い、肉親の死去などの悲しみとの戦い、肉親の殺人などの憎しみとの戦い、社会の不条理などとの戦い。この世で神中心的に生きると、このように大変な苦痛・葛藤が求められます。誘惑に屈せず、迫害に負けず、悲しみから希望を見出し、憎しみを善に転換し、不条理を耐え抜く-決して容易ではありません。誘惑に甘んじて、やりたい放題できればどれほど楽でしょうか。悲しみや憎しみをそのまま悪で相手に報復できます。不条理を不条理でやり返せます。しかし、その衝動に耐え、困難な道を歩み、その中で至福の喜びと希望を見出すことこそが、永遠の命へとつながる人生の歩み方なのです。

 イエス行動論要約

 イエスは、愛を持って人が聞きたがらない真理を教えられました。その厳しい教えは、家族よりも、そして自分よりも、神を愛し、追い求めることです。

 今日の試み

 今、試練の渦中にいますか。信仰が試されていますか。信仰が揺れていますか。
 まず、祈りを通して、神に寄り頼んでください。決して、己の力で、解決しようと思ってはなりません。妥協もしてはなりません。神と共に、聖霊に満たされ、イエスの赦しを糧にするならば、どんな試練も必ず乗り越えられます。

兄弟姉妹のみなさん、一人一人を愛します。
ありのままのあなたを愛します。I love you.
神の栄光をほめたたえます。ハレルヤ!^0^
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2015年1月28日水曜日

【イエス行動論46】 イエスの仲間であると言い表す マタイ10:32~33

イエスの仲間であると言い表す マタイ10:32~33

人間的解釈の芽を摘む簡潔な教え。















 聖句要点引用

32節、だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。
33節、しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。

 共に分析

 イエスから、はっきりした教え、教えの本質を学びましょう。
 
 主イエスの教えは明快です。理路整然としていて、はっきりしています。とりわけ今回の聖句はグレーゾーン/灰色がまったくなく、白黒はっきりしています。32節、Aをすれば、わたしもAをする。33節、Aをしなければ、わたしもAをしない。このような教えは、非常に分かりやすく、ゆえに実りある霊的成長につながります。
 この教え方の最も重要なメリットはその分かりやすさよりも、教えの解釈への耐性です。教えに少しでもグレーゾーンや解釈の余地が見出される場合、人間中心的な解釈によって、教えそのものが骨抜きにされる危険性があります。例えば、旧約時代の「隣人を愛しなさい」という律法は、隣人と言う単語が曖昧であり、結果的に「敵は憎み、殺してもよい」と解釈されました。後に、わざわざ主イエスが「敵を愛しなさい」と言う必要がありました。今回の聖句はその点で、人間が勝手に解釈し、御言葉を骨抜きにする余地はほとんどないでしょう。
 「ほとんど」と言った理由は、32節、「言い表す」の部分に若干の解釈の余地があるからです。きわどいところですが、少し考えてみると、言い表し方(語調・音量・言語・態度・回数・時制)など、「言い表す」をなし崩しにする切り口がたくさんあるのです。極論を言えば、①友達の前でさりげなく、ぼそっと、友達の分からない外国語で言い表す。②20年前教会の信徒の前で言い表したので、今は知らないと言ってもよい。③相手に真実・意味が伝わらないよう、語調や態度を工夫して言い表す、などなど。なんだか憲法解釈や国会答弁と瓜二つになってきました。
 色々な解釈が乱立し、一通り混乱期が過ぎると、初心に、つまり本質に立ち戻る必要性を感じるものです。本質を、教えの真理を理解することで、解釈うんぬんの議論に時間を費やさなくてもよいからです。神より頂いた知恵を持って神中心的に考えるならば、いついかなる場合でも、主イエスの仲間であると言い表すことが正しいとすぐわかります。このように思考がシンプルかつ正しい所以は、前述したように、解釈の余地を締め出す主イエスの教えにあるのです。

 イエス行動論要約

 イエスは、誰が聞いても明らかな、理路整然として方法で教えられました。シンプルかつ簡潔な教えは、人間中心的な解釈の余地を閉ざします。

 今日の試み

 イエスの教え、神の御言葉を誰かに話すとき、イエスがされたように、明快かつシンプルに教えましょう。勝手な解釈や誤解などでつまずかないよう、特別に言葉を選んで教えましょう。そのために必要な訓練・鍛錬に喜んで臨みましょう。

兄弟姉妹のみなさん、一人一人を愛します。
ありのままのあなたを愛します。I love you.
神の栄光をほめたたえます。ハレルヤ!^0^
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