イエスの仲間であると言い表す マタイ10:32~33
人間的解釈の芽を摘む簡潔な教え。
聖句要点引用
32節、だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。
33節、しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。
共に分析
イエスから、はっきりした教え、教えの本質を学びましょう。
主イエスの教えは明快です。理路整然としていて、はっきりしています。とりわけ今回の聖句はグレーゾーン/灰色がまったくなく、白黒はっきりしています。32節、Aをすれば、わたしもAをする。33節、Aをしなければ、わたしもAをしない。このような教えは、非常に分かりやすく、ゆえに実りある霊的成長につながります。
この教え方の最も重要なメリットはその分かりやすさよりも、教えの解釈への耐性です。教えに少しでもグレーゾーンや解釈の余地が見出される場合、人間中心的な解釈によって、教えそのものが骨抜きにされる危険性があります。例えば、旧約時代の「隣人を愛しなさい」という律法は、隣人と言う単語が曖昧であり、結果的に「敵は憎み、殺してもよい」と解釈されました。後に、わざわざ主イエスが「敵を愛しなさい」と言う必要がありました。今回の聖句はその点で、人間が勝手に解釈し、御言葉を骨抜きにする余地はほとんどないでしょう。
「ほとんど」と言った理由は、32節、「言い表す」の部分に若干の解釈の余地があるからです。きわどいところですが、少し考えてみると、言い表し方(語調・音量・言語・態度・回数・時制)など、「言い表す」をなし崩しにする切り口がたくさんあるのです。極論を言えば、①友達の前でさりげなく、ぼそっと、友達の分からない外国語で言い表す。②20年前教会の信徒の前で言い表したので、今は知らないと言ってもよい。③相手に真実・意味が伝わらないよう、語調や態度を工夫して言い表す、などなど。なんだか憲法解釈や国会答弁と瓜二つになってきました。
色々な解釈が乱立し、一通り混乱期が過ぎると、初心に、つまり本質に立ち戻る必要性を感じるものです。本質を、教えの真理を理解することで、解釈うんぬんの議論に時間を費やさなくてもよいからです。神より頂いた知恵を持って神中心的に考えるならば、いついかなる場合でも、主イエスの仲間であると言い表すことが正しいとすぐわかります。このように思考がシンプルかつ正しい所以は、前述したように、解釈の余地を締め出す主イエスの教えにあるのです。
イエス行動論要約
イエスは、誰が聞いても明らかな、理路整然として方法で教えられました。シンプルかつ簡潔な教えは、人間中心的な解釈の余地を閉ざします。
今日の試み
イエスの教え、神の御言葉を誰かに話すとき、イエスがされたように、明快かつシンプルに教えましょう。勝手な解釈や誤解などでつまずかないよう、特別に言葉を選んで教えましょう。そのために必要な訓練・鍛錬に喜んで臨みましょう。
兄弟姉妹のみなさん、一人一人を愛します。
ありのままのあなたを愛します。I love you.
神の栄光をほめたたえます。ハレルヤ!^0^
(画像URL:http://mrg.bz/fUIIS7)

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