2014年10月16日木曜日

【イエス行動論28】 重い皮膚病を患っている人をいやす マタイ8:1~4

重い皮膚病を患っている人をいやす マタイ8:1~4

清さ、汚れとは何か教えられます。
















 聖句要点引用

2節、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
3節、イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい、清くなれ」と言われると、重い皮膚病は清くなった。
4節、イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」

 共に分析

 イエスの行動の本質を学びましょう。
 本質は「第一に神の国と神の義を求める」イエスの姿です。
 山上の垂訓は終わりました。イエスは多くの群集とともに山を下ります。すると、一人の重い皮膚病の患者がイエスの前でひれ伏し、いやし求めました。2節にある通りです。実は、単に深々とお願いしたというようなものではなく、当時としてはそれこそ決死の覚悟だったと考えられます。参考として、少し当時の時代背景を説明します。残念ながら、今でも重い皮膚病の方を「汚れた」者として隔離する、もしくは避ける風習や慣習が残っています。当時、モーセの十戒に代表される律法を重んじていたイスラエルでは、皮膚病は「神の天罰」「神に打たれた者」と考えられていました。患者は、いわゆる健常者が近くを通るとき、自ら「汚れた者です」と相手に注意をする義務がありました。健常者が汚れないためです。社会から完全に隔離され、人々の交わることが禁じられていたのです。重度の皮膚病を患っている方は、文字通り「社会的に死んだ者」でありました。
 2節に登場する患者は決死の覚悟を持って、そして一縷の希望を持って、イエスに寄り頼みました。その切実さが想像できます。そもそも、人々に近づくこと自体禁じられていましたから、懲罰も覚悟の上です。このような、自分をなげうって、救いを求める人に、イエスはどう対応されたのでしょうか。
 3節、イエスはその人に触れました。触れたのです。予想ですが、誰かに触れられること自体、もし皮膚病が生まれつきであったならば、なかったはずです。「汚れた」存在として絶望的なまでに社会から疎外された患者が人から触れられるのは考えにくいからです。そして「よろしい、清くなれ」と言われました。患者の言葉を傾聴し、その信仰と経緯を見て、清められました。
 そして4節、イエスは口止めをします。いやしを行ったのち、この口止めはたびたび現れます。なぜ、口止めをする必要があるのでしょう。神の御業を喜び、賛美し、伝道に役立てたらよいのではないでしょうか。疑問が生じるときには、本質を考えましょう。イエスの本質は、「神の国と神の義を求める」ことであります。具体的には、十字架によって神の御心に適うことです。この本質から導き出される解にはどんなものがあるでしょう。わたしの知る限り、イエス自身がなぜ口止めされるのかを説明された箇所は聖書にありません。したがって、わたしたちが考える必要があります。説得力を持つ意見としては、まだ十字架に架かる時期ではない中、イエスの名声が余りに広まると、ユダヤの律法学者などがイエスを民衆の扇動者と疑い、危険人物として制裁や妨害を加えるからです。実際、イエスは大会堂では宣教することができなくなり、村・山・川付近で教えるようになります。

 イエス行動論要約

 イエスは、皮膚病を患う人に手を出して触れた。その人の信仰と経緯を見、いやされた。神の御心に集中するために、口止めをされた。

 今日の試み

 わたしは生まれながら軽度のアトピー(かゆみが生じる皮膚病)を持っています。軽度とはいえ、無性にかゆく、掻く動作が繰り返されることで、無意識的に掻く癖ができていました。例えば、朝起きてみると寝ている間に掻いた痕跡があるなど、ままありました。なので、重度の皮膚病となると、恐れ入ります。
 アトピーを治すために、色々な病院に行き、色々な医者に会いました。その中で、とても印象に残っているのが、わたしのアトピーの部分にご自分の手で薬を塗ってくださった医者です。わたしは、アトピーの部分を汚れた部分と考え、人目から隠していました。特に小学生・中学生の時代はそうでした。自分でも見るのがいやな皮膚の部分を、医者が触れてくれたときに、感動しました。イエスに触れられた方はどれほどの感動だったでしょう。
 何が清く、何が汚れか。兄弟姉妹のみなさんと共に考えたいです。

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2014年10月15日水曜日

【イエス行動論27】 家と土台 マタイ7:24~29

家と土台 マタイ7:24~29

絶対的な安心・安全・安定とは何か教えられます。


















 聖句要点引用

24節、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。
25節、雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。
26節、わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。
27節、雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。

 共に分析

 イエスの御言葉の本質と絶対的な安心・安全・安定を学びましょう。
 本質は「第一に神の国と神の義を求めなさい」です。絶対的な安心・安全・安定は「神の御心に適うよう生きる」ことです。
 「家と土台」は山上の垂訓の最後の御言葉です。これまでの御言葉を終える上で、そのすべえてを聞いて行いなさいと、釘を打っています。
 さて、わたしたちはどんな土台を基に生きているでしょうか。土台、根本、基礎、本質、核心は強固でしょうか。日本全体に目を向けると、長らく経済的にも社会的にも停滞した「失われた20年」から未だ抜け出した実感はありません。バブル崩壊によってもたらされたこの艱難は、現代を「不確実な時代」「不安定な時代」と特徴付けています。そして、そのような環境にいるからこそ、現代人は「確実志向」「安定志向」となります。大学での親友や、大学内外の学友の中でも安定志向のため、公務員を目指す人も多くなっています。
 そこで本質的な問いは、何が確実で安定なのかです。状況によって、場合によって、変わるもの・色あせるものは確実でも安定でもないでしょう。公務員は国が雇用主のため、解雇される心配はないかもしれませんが、それ自体前例がないだけであり得ますし、解雇されなくとも、国の動向によって待遇(給与・業務内容)変わります。
 では何が、絶対的な安全でしょうか。わたしたち神の子は、「神」と異口同音に答えます。「絶対性」は神が持つ特徴の中でも特筆すべきものです。絶対性とは、時と場合によって変わることのないものです。想像できるどんな状況、どんな境遇、どんな場合であったとしても、一定している、一貫しているのが、絶対性なのです。
 イエスは、その絶対的な安心・安全・安定をわたしたしが授かることができるように、具体的にどうすればよいか教えています。24節、御言葉を聞き、行うことです。そうする人を「岩の上に自分の家を建てた賢い人」と例えています。その結果、25節、自然災害から人生のあらゆる試練・艱難が襲ってきても、倒れず、持ちこたえます。岩(絶対性の比喩)を土台にしたからです。
 御言葉を聞くが、行わない人は「砂の上に家を建てた愚かな人」と例えています。自然災害や苦しみに耐えられず、倒れ、その倒れ方がひどいです。砂とは、「神以外」の土台と言えます。賢い人が安定志向となった場合、組織や国家(これらは移り変わる)ではなく、神に寄り頼むのです。

 イエス行動論要約

 現代の主な特徴は、不確実、不安定であり、現代人は何らかの形で確実なもの、安定なものを求めている。まことの、絶対的な安心・安全・安定は神であり、神の御言葉を聞き、行うことでそれらを恵みとして授かることができます。

 今日の試み

 頑丈で安定した土台。家については特に言及していません。段ボール箱でも、アパートでも、一軒家でも、お城でも関係ありません。何を土台としているか、が本質です。
 一つ、私自身、よく陥る注意を。神の御言葉を聞き、行うのですが、少し注意をそらすと、人間中心的に考えるようになります。つまり、これだけちゃんと聞き、これだけ良い行いをしたのだから、当然のように神の祝福を期待することです。イエスははっきりと教えられます。わたしたち罪深き人間は、自分の能力・努力などでも天国に入ることは「できず」、神が慈愛によって、「義とされる」と。傲慢に陥らず、謙虚に、そして喜んで神の御言葉を聞き、行いましょう。
 兄弟姉妹の日々との活躍と輝きをお祈りします。まずは、心を開いて神の御言葉を本当の意味で「聞く」ことから始めてもよいかもしれません。今日何をされるにしても、「第一に神の国と神の義を求める」ことを心に留めてください。

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2014年10月14日火曜日

【イエス行動論26】 あなたたちのことは知らない マタイ7:21~23

あなたたちのことは知らない マタイ7:21~23

厳格に捉えるべき訓示です。
















 聖句要点引用

21節、わたしに向かって、「主よ、主よ」と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。
22節、かの日には、大勢の者がわたしに、「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」と言うであろう。
23節、そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。」

 共に分析

 イエスの教えの本質と、神様による義とされる本質を学びましょう。
 イエスの教えの本質は、「第一に神の国と神の義を求めなさい」であり、義とされる上での本質もそうであります。今回の御言葉にて詳しく説明するならば、「愛と喜びに満ちた信仰と行い」が本質です。
 自分自身の信仰と行いを顧みる必要性を感じませんでしたか。わたしは強く感じました。一見、今日の御言葉を見ると、自分の罪深さを知り、天の国に入ることは不可能だと思うかもしれません。しかし、慈愛の神様はわたしたちに永遠の命と福音をくださいました。希望があるのです。
 この聖句を読んで、不安を感じるとすれば、21節の「主よ、主よ」と「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」ではないでしょうか。そして、23節、「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。」です。「主よ、主よ」というのは、祈りであり、神の存在と偉大さを認め、信じています。そして、主よ、主よ、わたしたちは御名によって…」は、神様の御業を通してよいことをしたという、行いにあたります。
 これまで、天の国に入るわたしたちは、清い信仰と善い行いをする必要があることを繰り返し学んできました。しかし、上記を見て、信仰もあり、行いもあるのに、救われないと思うのではないでしょうか。はっきり言いますが、そのように考えるのは非常に浅はかです。信仰とは、「主よ、主よ」と唱えることではありません。善い行いとは、「御名によって…行ってではありませんか」といった傲慢なものではありません。これらは、信仰のように見えて、信仰ではなく、善い行いに見えて、善い行いではないのです。 
 前者は、口先でイエスの名を唱える、祈りの回数を無駄に増やすなど、本質的に見れば信仰ではないことがわかります。後者は、あたかも人間の行いによって神を操作/交渉できると非常に傲慢に、人間中心的に考えています。人間の努力や意志で天国に入れるか否かなどそもそも決めることなどできないという謙虚さを忘れています。
 では、どうすればよいのでしょう。答えは与えられています。21節、天の父の御心を行う、ことなのです。そしてそれは、「第一に神の国と神の義を求める」ことです。清い信仰を持って、清い善行を行うのです。

 イエス行動論要約

 偽の信仰、偽の善行を自覚し、天の父の御心を行うことが、最善の生き方です。その生き方は、真実に基づいた、非常に清く、喜びに溢れ、愛に満ちたものです。そもそも、わたしたち罪人は捨てられて当然の者なのに、痛ましい犠牲を払って救ってくださったという畏怖と感謝と謙虚さを保ちましょう。

 今日の試み

 わたしはこの聖句を真摯に読むと、自分の罪深さを再確認します。しかし、自己嫌悪に陥らない理由は、喜びと愛に満ちた赦し・希望があるからです。そして、本当に清いものに触れた経験を思い出すことができるからです。
 兄弟姉妹のみなさん、わたしたちのうち、善い者など一人もいません。一人もいないのです。ゆえに、神によって善いと「される」のです。しかし、神はわたしたちに自由意志をくださいました。あなたは今日、何を試みますか。御自分の信仰と善行を教え通りに点検し、第一に神の国と神の義を求めてください。

ブログ訪問、ありがとうございました。
神の栄光をほめたたえます。ハレルヤ!^0^
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