2014年10月14日火曜日

【イエス行動論26】 あなたたちのことは知らない マタイ7:21~23

あなたたちのことは知らない マタイ7:21~23

厳格に捉えるべき訓示です。
















 聖句要点引用

21節、わたしに向かって、「主よ、主よ」と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。
22節、かの日には、大勢の者がわたしに、「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」と言うであろう。
23節、そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。」

 共に分析

 イエスの教えの本質と、神様による義とされる本質を学びましょう。
 イエスの教えの本質は、「第一に神の国と神の義を求めなさい」であり、義とされる上での本質もそうであります。今回の御言葉にて詳しく説明するならば、「愛と喜びに満ちた信仰と行い」が本質です。
 自分自身の信仰と行いを顧みる必要性を感じませんでしたか。わたしは強く感じました。一見、今日の御言葉を見ると、自分の罪深さを知り、天の国に入ることは不可能だと思うかもしれません。しかし、慈愛の神様はわたしたちに永遠の命と福音をくださいました。希望があるのです。
 この聖句を読んで、不安を感じるとすれば、21節の「主よ、主よ」と「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」ではないでしょうか。そして、23節、「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。」です。「主よ、主よ」というのは、祈りであり、神の存在と偉大さを認め、信じています。そして、主よ、主よ、わたしたちは御名によって…」は、神様の御業を通してよいことをしたという、行いにあたります。
 これまで、天の国に入るわたしたちは、清い信仰と善い行いをする必要があることを繰り返し学んできました。しかし、上記を見て、信仰もあり、行いもあるのに、救われないと思うのではないでしょうか。はっきり言いますが、そのように考えるのは非常に浅はかです。信仰とは、「主よ、主よ」と唱えることではありません。善い行いとは、「御名によって…行ってではありませんか」といった傲慢なものではありません。これらは、信仰のように見えて、信仰ではなく、善い行いに見えて、善い行いではないのです。 
 前者は、口先でイエスの名を唱える、祈りの回数を無駄に増やすなど、本質的に見れば信仰ではないことがわかります。後者は、あたかも人間の行いによって神を操作/交渉できると非常に傲慢に、人間中心的に考えています。人間の努力や意志で天国に入れるか否かなどそもそも決めることなどできないという謙虚さを忘れています。
 では、どうすればよいのでしょう。答えは与えられています。21節、天の父の御心を行う、ことなのです。そしてそれは、「第一に神の国と神の義を求める」ことです。清い信仰を持って、清い善行を行うのです。

 イエス行動論要約

 偽の信仰、偽の善行を自覚し、天の父の御心を行うことが、最善の生き方です。その生き方は、真実に基づいた、非常に清く、喜びに溢れ、愛に満ちたものです。そもそも、わたしたち罪人は捨てられて当然の者なのに、痛ましい犠牲を払って救ってくださったという畏怖と感謝と謙虚さを保ちましょう。

 今日の試み

 わたしはこの聖句を真摯に読むと、自分の罪深さを再確認します。しかし、自己嫌悪に陥らない理由は、喜びと愛に満ちた赦し・希望があるからです。そして、本当に清いものに触れた経験を思い出すことができるからです。
 兄弟姉妹のみなさん、わたしたちのうち、善い者など一人もいません。一人もいないのです。ゆえに、神によって善いと「される」のです。しかし、神はわたしたちに自由意志をくださいました。あなたは今日、何を試みますか。御自分の信仰と善行を教え通りに点検し、第一に神の国と神の義を求めてください。

ブログ訪問、ありがとうございました。
神の栄光をほめたたえます。ハレルヤ!^0^
 (画像URL:http://mrg.bz/O4iYMV)

1 件のコメント:

  1. さまざまな誘惑のなかで神の義だけを求めるのは、難しいことだと思いますが、神に依り頼む人は、義に近づけると思います。

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