誓ってはならない マタイ5:33~37
神への誓いの意味について教えられている。
要点聖句引用
33節、昔の人は『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。
34~36節、しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天に、地に、エルサレムに、あなたの頭にかけて誓ってはならない。
37節、あなたがたは『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。
共に分析
イエスが教えられた御言葉の本質を学びましょう。
この御言葉の本質は何なのか。
「神の国とその義を求める」です。
イエスの教えを受け入れるためには、わたしたちのそもそもの目的、目標を明確に理解する必要があります(【イエス行動論11】離縁してはならないと同じく)。こうした教えでつまずきが起きるのは、個々の「~してはならない」にだけ焦点を当て、その教えの真の意味を汲み取っていないからです。近視眼的な姿勢では、この御言葉は受け入れるのが大変難しいでしょう。法律には例外がつきものであるからです。洗礼を受けるときの宣誓、結婚式での誓いはどうなのか、などなど。これらは全て有意義な議論ですが、往々にして律法主義に陥り、そもそも律法が持つ役割を忘れてしまいます。
御言葉の本質、そしてわたしたちの存在の本質は、第一に神の国とその義を求めることです。もう一度言います。御言葉の本質は、第一に神の国とその義を求めることです。
誓いに関する神の御心は申命記6:13ではっきりしています。加えて、誓いに関する直接的な聖句を二つ示します。まず、13節、「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」(モーセ)です。これは、明確に神の御心と言えます。イエスは律法を廃止するためでなく、完成させるために来られました。したがって、イエスの「一切誓ってはならない」と申命記の「誓いなさい」は矛盾せず、整合性を保つ必要があります。
もう二つの聖句は、旧約から一つ、新約から一つです。一つ目は、アブラハムの誓いです。創世記21章24節で「よろしい、誓いましょう」(アブラハム)と書いてあります。アビメレクという軍隊の長のために神のご加護を神にかけて誓った場面です。二つ目は、パウロの誓いです。コリントⅡ1章23節、「神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、」(パウロ)と書いてあります。コリントの信徒たちに、コリント訪問を延期した理由について誓った場面です。
以上を総合的に判断すると、単純な誓い禁止令ではないことがわかります。額面通り受け取って、洗礼・結婚式・宣誓式などで誓わない、死ぬまで一切誓わないと決め込むのは浅はかです。神の御心と、神が義とされた人々は現に誓っているからです。すると、どうなるのでしょう。
イエスの教えの聞き手だった、ユダヤの民衆が神に対して不誠実で、軽はずみに誓いを立て、その責めを負う様子を御覧になって、断定口調で教えたのではないでしょうか。誓いは、軽はずみでしてはいけません。誓いは神に、神聖なもの(すべての被造物を含める)にかけて誓うものであるからです。誓いは畏れ多いものであり、かつ責任が問われるものです。ユダヤの民衆はもはや、誓うための清い心を失っていたと考えられます。
不安定かつ不確実などと称される現代では、契約・保証・担保・約束などが重宝されます。何か確実なもの、安定しているものが欲しいのです。誓いもまた、同じ文脈で色々な場面で要求されます。人間中心、自己中心的な誓いは、責めを負うことになります。誓いを果たせないことはもちろん、神中心的な心で誓っていないからです。
イエス行動論要約
「誓ってはならない」を受け入れる上で、わたしたちの人生の意味、存在の意味を自覚することが重要。それは、第一に神の国と神の義を求めること。誓いは、神の栄光のために、必要不可欠で、完徹する確信がある時に限定して厳粛に行うべき。
今日の試み
もし、主イエスの11人の使徒たちが結婚することになったら、結婚式で神に永遠の愛を誓ったと思いますか?誓ったと思います。
あなたはこれまでどんな誓いをかけてきましたか?それらは神中心のものでしたか?
誓いとは、畏れ多く、重いものですが、喜びをもたらします。わたしたちは、神様と約束することが許されているのです。
今の社会で、誓いがどのようにかけられているか、つぶさに見てみましょう。
ブログ訪問、ありがとうございました。
神の栄光をほめたたえます。ハレルヤ!^0^