2014年9月30日火曜日

【イエス行動論12】 誓ってはならない マタイ5:33~37

誓ってはならない マタイ5:33~37

 神への誓いの意味について教えられている。

 要点聖句引用

33節、昔の人は『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。
34~36節、しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天に、地に、エルサレムに、あなたの頭にかけて誓ってはならない。
37節、あなたがたは『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。

 共に分析

 イエスが教えられた御言葉の本質を学びましょう。
 この御言葉の本質は何なのか。
 「神の国とその義を求める」です。
 イエスの教えを受け入れるためには、わたしたちのそもそもの目的、目標を明確に理解する必要があります(【イエス行動論11】離縁してはならないと同じく)。こうした教えでつまずきが起きるのは、個々の「~してはならない」にだけ焦点を当て、その教えの真の意味を汲み取っていないからです。近視眼的な姿勢では、この御言葉は受け入れるのが大変難しいでしょう。法律には例外がつきものであるからです。洗礼を受けるときの宣誓、結婚式での誓いはどうなのか、などなど。これらは全て有意義な議論ですが、往々にして律法主義に陥り、そもそも律法が持つ役割を忘れてしまいます。
 御言葉の本質、そしてわたしたちの存在の本質は、第一に神の国とその義を求めることです。もう一度言います。御言葉の本質は、第一に神の国とその義を求めることです。
 誓いに関する神の御心は申命記6:13ではっきりしています。加えて、誓いに関する直接的な聖句を二つ示します。まず、13節、「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」(モーセ)です。これは、明確に神の御心と言えます。イエスは律法を廃止するためでなく、完成させるために来られました。したがって、イエスの「一切誓ってはならない」と申命記の「誓いなさい」は矛盾せず、整合性を保つ必要があります。
 もう二つの聖句は、旧約から一つ、新約から一つです。一つ目は、アブラハムの誓いです。創世記21章24節で「よろしい、誓いましょう」(アブラハム)と書いてあります。アビメレクという軍隊の長のために神のご加護を神にかけて誓った場面です。二つ目は、パウロの誓いです。コリントⅡ1章23節、「神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、」(パウロ)と書いてあります。コリントの信徒たちに、コリント訪問を延期した理由について誓った場面です。
 以上を総合的に判断すると、単純な誓い禁止令ではないことがわかります。額面通り受け取って、洗礼・結婚式・宣誓式などで誓わない、死ぬまで一切誓わないと決め込むのは浅はかです。神の御心と、神が義とされた人々は現に誓っているからです。すると、どうなるのでしょう
 イエスの教えの聞き手だった、ユダヤの民衆が神に対して不誠実で、軽はずみに誓いを立て、その責めを負う様子を御覧になって、断定口調で教えたのではないでしょうか。誓いは、軽はずみでしてはいけません。誓いは神に、神聖なもの(すべての被造物を含める)にかけて誓うものであるからです。誓いは畏れ多いものであり、かつ責任が問われるものです。ユダヤの民衆はもはや、誓うための清い心を失っていたと考えられます。
 不安定かつ不確実などと称される現代では、契約・保証・担保・約束などが重宝されます。何か確実なもの、安定しているものが欲しいのです。誓いもまた、同じ文脈で色々な場面で要求されます。人間中心、自己中心的な誓いは、責めを負うことになります。誓いを果たせないことはもちろん、神中心的な心で誓っていないからです。

 イエス行動論要約

 「誓ってはならない」を受け入れる上で、わたしたちの人生の意味、存在の意味を自覚することが重要。それは、第一に神の国と神の義を求めること。誓いは、神の栄光のために、必要不可欠で、完徹する確信がある時に限定して厳粛に行うべき。

 今日の試み

 もし、主イエスの11人の使徒たちが結婚することになったら、結婚式で神に永遠の愛を誓ったと思いますか?誓ったと思います。
 あなたはこれまでどんな誓いをかけてきましたか?それらは神中心のものでしたか?
 誓いとは、畏れ多く、重いものですが、喜びをもたらします。わたしたちは、神様と約束することが許されているのです。
 今の社会で、誓いがどのようにかけられているか、つぶさに見てみましょう。

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神の栄光をほめたたえます。ハレルヤ!^0^

2014年9月29日月曜日

【イエス行動論11】 離縁してはならない マタイ5:31~33

離縁してはならない マタイ5:31~33

 新約における離縁と姦通について教えられている。

 要点聖句引用

31節、「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。
32節、しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。

 共に分析

 イエスの教え方と御言葉の本質を学びましょう。
 その前に、用語の定義を。離縁とは「夫婦または養親子の関係を解消すること(wikipedia)」で、姦通とは「社会的、道徳的に容認されない不貞行為、性交渉(wikipedia)」です。離縁と離婚は同義です。
 イエスの教え方は、これまで共に見てきたものが繰り返されています。過去➡現在という論理的順番と、「しかし、わたしは言っておく」というキーワード。黄金パターンです。このパターンは人間がつくったものではありません。これは、イエスの教え方の分析の結果です。論理的順番とキーワードの持つ意味を考え、見習うべきです。細かい説明は、過去の投稿を参照してください。(論理的順番キーワード)。
 この御言葉の本質は何なのか。
 「神の国とその義を求める」と「隣人を自分のように愛せよ」です。
 離縁してはならない理由が、31節に書いてあります。その理由は、結婚に不法性がないにもかかわらず、離縁した場合、女は姦通の罪を犯し、また、その女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる、ことです。
 こういったイエスの教えを受け入れるためには、わたしたちのそもそもの目的、目標を明確に理解する必要があります。こうした教えでつまずきが起きるのは、個々の「~してはならない」にだけ焦点を当て、その教えの真の意味を汲み取っていないからです。近視眼的な姿勢では、この御言葉は受け入れるのが大変難しいでしょう。法律には例外がつきものであるからです。重婚はよいのか、不法な結婚なら離縁してもよいのか、「不法」とは具体的にどういう基準か、などなど。これらは全て有意義な議論ですが、往々にして律法主義に陥り、そもそも律法が持つ役割を忘れてしまいます。
 御言葉の本質、そしてわたしたちの存在の本質は、第一に神の国とその義を求め、隣人を自分のように愛することです。もう一度言います。わたしたちの存在の本質は、第一に神の国とその義を求め、隣人を自分のように愛すること、なのです。
 離縁に関する神の御心はマルコ10:9を見れば一目瞭然です。9節、「従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」です。これが神の御心です。
 はっきり言いますが、わたしたちの人生の目的は最愛のパートナーを探すことではありません。それらは有意義なことですが、二義的なことなのです。そして神はわたしたちが必要とすることをすべて与えられます。何が正しいか否かといった知恵も神が承ります。
 現代ではワイドショーなどで離婚や不倫が「経験者」や「ベテラン」といった形で登場しますが、これらは人間中心、自己中心的生活です。神中心的生活を歩みましょう。

 イエス行動論要約

 イエスの教え方のパターン(過去➡現在、キーワード)を再び確認。「離縁してはならない」を受け入れる上で、わたしたちの人生の意味、存在の意味を自覚することが重要。それは、第一に神の国と神の義を求め、隣人を自分のように愛すること。
 今日の試み
 「離縁してはならない」の教えの真意を考えましょう。神様の御心が分かれば、複雑かつ様々な例外がある現実社会においても、善い判断をすることができます。兄弟姉妹を大別して未婚者・既婚者とすることができます。それぞれにどういうメッセージを神は送られているのか、考えてください。

(「である」口調を「です・ます」口調に直しました。この方が兄弟姉妹に伝わりやすいと判断したからです。)

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2014年9月28日日曜日

【イエス行動論10】 姦淫してはならない マタイ5:27~30

題目:姦淫してはならない マタイ5:27~30

心を清く保ちなさい、と教えられた場面です。

 聖句要点引用

 27節、あなたがたも聞いている通り「姦淫するな」と命じられている。
 28節、しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
 29節、もし右目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部なくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである
 30節、もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても…。

 共に分析

 イエスの教え方(キーワード)と御言葉の本質を学びましょう。
 イエスの教えの順番は昨日(イエス行動論9)見たとおり、過去➡現在➡行い、となっている。教え説く上で、ひとつのパターンとなっていることがわかる。今回は、イエスが繰り返し使うキーワード「しかし、わたしは言っておく」に注目する。
 教えの「過去」の部分は、みなが常識として共有しているため、理解ができる。しかし、過去から「現在」の移行で、常識が新たなものとされるため、理解に苦しむ人が出てくる。「姦淫するな」はそうだと理解できるが、「心の中で…犯した」は必ずしもそうではないと考える人がいるかもしれない。しかし、この新たな認識を、新しい約束を受け入れることが教えの目的である。
 イエスの御言葉をつぶさに見ると、「しかし、わたしは言っておく」や「はっきり言っておくが」というキーワードを何度も見かける。このキーワードはいつも、過去と現在をつなぐ接続詞のような形で使われている。このキーワードに出会うと、「ああ、次は何か新しい認識、約束を教えるだろうな」と期待するようになる。
 この合言葉が持つ効果は、看過できないものだ。聞き手が自然と次の内容を期待し、受け入れやすくなるばかりか、聞き手の細心の注意を集めることができる。それまで、漠然と説教が聞いていた人も、この合言葉を聞くと、細心の注意を向けるだろう。そして、イエスの使う合言葉は確信があり、自信が溢れているので、より効果的である。教えは反復的に行うものである以上、よい合言葉があれば、より聞き手に伝わりやすい伝道ができるのではないか。イエスが実際に使われた方法なのである。
 
 この教えの本質は何なのか。 「隣人を自分のように愛せよ」と「心を清く保ちなさい」であろう。 
 姦淫とは、強制的に性的暴行などを与えることである。しかし、イエスの再定義する姦淫とは、28節、みだらな思いで他人の妻を見る、ことを指すのだ。心の中で女性を犯すということである。そして、慈愛と愛に満ちたイエスだが、恐ろしい言葉が続く。もし、目がつまずきもたらすなら、えぐりだせ。右の手がつまずかせるなら、切り取れと教えた。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましであるからだ。
 正直に言って、今の私は罪に問われるだろう。セクシーな女性に出会えば、みだらな思いを持って意識する節がある。若気の至りで、寝てみたいと考えたりもする。しかし、目をえぐり、手を切るほどの覚悟はない。それならば、そういったみだらな思いを捨てた方がよほど賢明だ。 しかし罰による抑止(恐怖)が、わたしたちの主な動機ではない。女性に対していかがわしい思いを抱かない、抱かないよう努力する動機は、隣人を自分のように愛し、心を清く保つためである。愛する女性を前に、みだらな思いを持つのは、健全なことだろうか。断じて違う。女性の信仰・品性・言動・外見を素直に愛らしく考えるのが正しいのだ。

 イエス行動論要約

イエスは聞き手の注意を集める、合言葉を持って教えた。聞き手が御言葉を理解し、従うためである。イエスの御言葉に従うわたしたちは、隣人を自分のように愛し、心をいつも清く保つ必要がある。したがって、みだらな思いを持って女性を見るのは、大罪である。愛を持って女性に接することである。

 今日の試み

 あなたは合言葉を使っていますか?わたしは「神はこう言われます。」か、「聖書にはこう書いてあります」をよく使います。合言葉は主イエスが何度も使われたものです。もし、なければ合言葉を一つ考えてみましょう。思いつかなかったら、わたしの合言葉を使ってください。
 あなたは、異性に対してみだらな思いを抱いていますか?わたしたちは、神の祝福と聖霊の知恵によって、みだらか否か、善いことか悪いことか、分かります。非常に魅力的な異性が目の前に表れたら、心を清く保つために避けるのではなく、愛らしく思ってください。みだらな思いを持っているなら、相手の信仰・品性・言動・外見を素直にほめ、兄弟姉妹として、愛することをイメージし、少しずつそのみだらな思いを清いものにしましょう。

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2014年9月27日土曜日

【イエス行動論9】 腹を立ててはならない マタイ5:21~26

題目:腹を立ててはならない マタイ5:21~26

心を怒りや憎しみから清くしなさいと、教えられた場面です。

 聖句要点引用

 21節、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。
 22節、しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、「愚か者」と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
 23節、あなたが祭壇に供え物を献げてようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、
 24節、まず行って兄弟と仲直りし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。

 共に分析

 イエスの教え方と御言葉の本質を学びましょう。
 聞き手に何を伝えるかより、それをどのような方法で、順番で伝えるかが重要となる場合が多々ある。伝える内容が良質である(真理)場合、その傾向はより強い。イエスの教える順番は非常に参考になる。
 もし、イエスが24節の言葉を最初に言ったなら、果たして人々に真理のメッセージが伝わるだろうか。イエスの教え方の順番を分析すると、過去➡現在➡行いとなっている。これまでは~➡これからは~➡こうしなさい~というもの。21節は、なるほど、そうだと人々の思うところからスタートしている。人々が共有する常識や暗黙の了解から話すと共感し、聞く耳を立てるのだ。ここでのミソは「昔」という単語が使われていることだ。21節はもはや昔のことだと、暗に言っているのである。したがって、今のままではだめで、こうするべきだという教えに繋がりやすくしているのだ。
 この教えの本質は何なのか。
 「隣人を自分のように愛せよ」と「心を清く保ちなさい」であろう。
 21節、昔の人は旧約時代の律法に従う。旧約では(現代もそうだ)、殺人を犯すと罰せられるが、22節、新約は兄弟に腹を立てる者、誹謗中傷する者も罰せられるとしている。兄弟に対して「ばか」「愚か者」と言う者は火の地獄に投げ込まれる処罰を受けるのだ。
 23~24節、神に接する(供え物)前に兄弟と仲直りなどして反感を払拭しろと主イエスは言っている。
 主イエスが教える新約は、心の中で憎しみを覚えること、腹を立てる者を罰せられる。殺人という行為に至らずとも、罪なる思いや動機があれば、有罪ということだ。兄弟姉妹だけでなく、敵に対する敵意も罰せられ、即時和解しないと、重い刑罰を受けるとしている。それは、心の中の憎悪や怒りが結局行為に繋がると言った理由だけでなく、信仰に寄りたのむわたしたちにとって心は聖霊がおられる場所であり、神の御言葉によって清くする必要があるからだ。

 イエス行動論要約

イエスは過去➡現在➡行いの順番で教えられた。共感を得るところから始め、変化を促す順番である。イエスの御言葉に従うわたしたちは、隣人を自分のように愛し、心をいつも清く保つ必要がある。

 今日の試み

 日々生きていくと、無用な圧力、理不尽な仕打ち、突然の事故などストレスが溜まりやすいことが頻繁に起こる。職場では上司、学校では先生や先輩、家庭では夫や妻からストレスを受けやすい。腹が立って当然のものもあるだろう。あれは許せない、など。
 本当にそうだろうか。腹が立ってよいのか。これは、明らかに主イエスの教えに背いている。わたしたちは、「隣人を自分のように愛せよ」、「心を清く保ちなさい」と教えられている。そして、実は、これらから至福の喜びを受けることが赦されている。
 あなたが今どうしても許せない、考えるだけで怒り心頭のことは何ですか?下のコメントにて兄弟姉妹と共有してください。神様は、何とコメントするでしょうか。

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2014年9月26日金曜日

【イエス行動論8】 律法について マタイ5:17~20

題目: 律法について マタイ5:17~20

新約が旧約をどのように定義しているかがわかる部分です。

 聖句要点引用

 17節、わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
 18節、すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。
 19節、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。
 20節、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。

 共に分析

 イエスによる旧約と新約の関係性の説教と勘違いの予防を学びましょう。新約時代に生きる私たちは、旧約とのつながり、整合性に関して、どのように信徒たちに伝えればよいのか。イエスの御言葉を参考にします。
 17節、イエスは律法を廃止するためではなく、完成するために来たと言った。さらに、18節、律法の文字から一点一画も消えることはないとした。つまり、旧約時代の律法を完全に尊重し、その効力が持続するとした。しかし、ここで決定的に重要なのは、旧約における律法は裏をかえせば「未完成」であることだ。旧約の律法は正しいが、それだけでは十分ではないとしているのだ。そこで、新たな約束を加えることで、完成するとしている。
 19節は耳に痛いことばである。私はイエスの示した二つのグランドルール(神を愛しなさい、隣人を愛しなさい)によって、旧約の律法を軽視してきた。グランドルールさえ守ればよいと考え、なんと手軽と思った。19節はそれがとんだ勘違いであることを思い知らされる。律法の中でも最も小さく、細かい掟を一つでも破る、そうしてもよいと人に伝えると、天の国で最も小さい者と呼ばれるのだ。
 19節はもう一つ考え物がある。確かに、最も小さい者と呼ばれるが、「天の国で」なのだ。つまり、信仰を持つと、天の国には入れると解釈できる。
 20節、天国に入るためには、律法学者やファリサイ派の義にまさる必要があるとイエスは言っている。律法学者やファリサイ派というと、律法を完全に熟知しその通り厳粛に実行する厳格で、敬虔なクリスチャンである。儀式、禁欲などを完徹するのである。ポイントは彼らも義とされていること、その義だけでは足りないことだ。
思うに、イエスは私たちが天の国に入いることを望んでおられ、その方法を教えてくださったのだ。

 イエス行動論要約

 旧約における律法を前提に、新約の律法を守ることで、天の国に入れるというのが素直な解釈である。私の持論は、ここで完全に打ち砕かれたのである。新約は旧約を書き換えない。完成するものである以上、旧約は義なる上で等しく重要なのである。律法の話が持ち上がったとき、イエスの御言葉を参考するとよい。紛れもない真実だからである。

 今日の試み

 時として、クリスチャンは、難しい質問を受けます。律法もその一つと言えます。旧約と新約の関係、優先順位、信仰との関わり、などなど。これらの問いを、わたしたち自身で考え、答えようとすると、聖霊に満たされていない限り、非常に難しいです。ゆえに難しい質問なのです。
 主イエスの御言葉に従うのが正しい道です。主イエスはこの問いにどう答えられているのか。
 さっそく、練習しましょう。
 「旧約の律法と新約の関係はどうなっているのですか?」
 「旧約の律法は義があったが、〇で、新約によって律法はする」
 答えの〇は下のコメントで参照してください。

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2014年9月25日木曜日

【イエス行動論7】 地の塩、世の光 マタイ5:13~16

題目: 地の塩、世の光 マタイ5:13~16

山上の垂訓の続きで、非常に有名な御言葉です。

 聖句要点引用

13節「あなたがたは地の塩。だが、塩に塩気がなくなれば…もはや何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」
14節「あなたがたは世の光。山の上にある町は、隠れることができない。」
15節「ともし火をの下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである」
16節「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々があなたがたの行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

 共に分析

 イエスから、伝道における再定義と論理構造を学びましょう。
イエスの例え、比喩のすばらしさは、ノンクリスチャンも認めるほどである。イエスは、ここでも、神を信じる義の人のことを再定義している。新たなアイデンティティとして、地の塩、世の光と例えている。義なる者は、塩気といった、周囲と一線を画す人格・特徴を持たなければ、周りと同質となり、役に立たない者となる。光は高い所にあってこそ、多くのものを照らす。升の下に光を置く者などいない。
 このように、例や比喩を用いる理由は、人々にリアリティを湧かせ、クリスチャンのあり方を具体的にイメージできるようにすることと、新しいアイデンティティ確立(再定義)を示し、これまでの行いを改め新しく生きられるよう奨励するためである。
 人は不思議と、己の存在定義によって、変わるのである。歯医者を匠な彫刻家と言ってみたり、掃除してくださる方々を「最後の砦」と言ってみたり。新しい名が付与されると、考え方も取り組み方も一新され、踏み出す勇気が生まれる。このように、人々に新しい信仰による生活を勧めるときには、イエスがよく使う再定義(人間を取る漁師など)が効果的である。これは伝道する人によって異なるため、知恵を働かせないとできないものだ。
 16節、イエスは「光を人々の前に輝かしなさい」と言い、具体的には「立派な行い」を見せ、それは天の父をあがめるようになるためであるとした。望ましい状態➡方法➡目的、の論理構造なのだが、これはまず私たち自身の信仰生活を輝かしなさいと言われ、その具体的な方法と、それらの意味や目的を教えられた。企業の言葉で言うと、望ましい状態➡戦略➡ミッションとなる。この論理順序はすごく意味がある。神への信仰心の人々に対して、もし、天の父をあがめるためという目的から説く場合、その時点でほとんど人はアンテナを閉め、去ってしまうだろう。神の栄光をたたえるといった目的を共有していないからだ。クリスチャン相手には、目的➡方法➡望ましい状態でもよいが、ノンクリスチャン相手には望ましい状態➡方法➡目的がよい。望ましい状態は、なるほど万人にとって望ましい真理であるため、聞く耳を持つ。イエスが用いられた論理構造であるから、間違いないだろう。

 イエス行動論要約

 神を信じる者は、塩気を持ち、輝きを放つ光を持つ。塩と光を立派な行いによって人々に表す。行いの目的は、天の父をあがめるようになるためだ。地の塩、世の光はイエスによる信仰を持つ義の人の再定義だ。そしてノンクリスチャンへの伝道の論理構造は望ましい状態➡方法➡目的であった。

 今日の試み

 私は大学の構内をいつも掃除してくださる方々を尊敬しています。しかし、残念ながら、掃除してくださる方を見下したり、掃除する方自身が自己否定をしていたりすることがあります。そういった場合、主イエスは福音を宣べ伝え希望を与えますが、その過程で相手を再定義されます。わたしは掃除される方々を「最後の砦」と再定義しました。
 再定義は練習が必要です。知恵が必要です。語彙力などの知識だけではありません。「クリーナー」「影武者」といってもピンときません。
 練習してみましょう。
 あなたは、掃除される方をどう再定義しますか?下のコメントにて兄弟姉妹と分かち合ってください。

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2014年9月24日水曜日

【イエス行動論6】 山上の説教(垂訓)を始める マタイ5:1~12

題目: 山上の説教(垂訓)を始める マタイ5:1~12

かの有名な山上の説教です。山上の垂訓ともいいます。

 聖句要点引用

3節「心の貧しい人々は、幸いである…天の国はその人たちのものである」
4節「悲しみ人々は、幸いである…慰められる」
5節「柔和な人々…地を受け継ぐ」
6節「義に餓え渇く人々…満たされる」
7節「憐れみ深い人々…憐れみを受ける」
8節「心の清い人々…神を見る」
9節「平和を実現する人々…神の子と呼ばれる」
10節「義のために迫害される人々…天の国はその人たちのものである」
12節「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」

 共に分析

 イエスにより、幸いの再定義と喜びを学びましょう。
クリスチャンではなくとも、一度は聞いたことがあろう有名な箇所である。山上の垂訓は、ことごとく世の常識をひっくり返し、人々を仰天させる。
 イエスは幸いを再定義したのだ。3節「心の貧しい人は、幸いである。天の国はその人たちのものである」。はっきり言おう、心の貧しい人が幸いであるはずがない。そうではないか?貧しさは欠落、不満足であり、不幸である。しかしイエスは幸いと言っている。当時の群集も、現代人も「は?」というリアクションを取るはずだ。心の貧しい人が幸いである根拠は、天の国がその人たちのものであるということだ。
 現代人は、私を含めて、悲しみたくない、人に悲しみを与えることで自分が回避できるなら、そうするだろう。柔和であると損をする。騙される。悪賢く、人を出し抜く方法を講ずるのが得策である。義のような抽象的で、人によって異なるようなぶれぶれの価値より、カネを信頼した方がよい。人を憐れむ余裕などなく、まして、自分を傷つけた奴らを許してやることなんか考えられない。慰謝料をたんまり請求して、重刑を受けさせてやりたい。心の清い奴なんて、いないし、いても、偽善者だ。心よりも能力だ。何をどう思うかじゃなくて、何をするかが重要。心の清さとか、甘えてる。平和を実現するとの名目でボランティアしているが、それも甘えてる。平和じゃなくて自己実現だろ。義のために迫害を受けるって、あり得ない。危険を通り越して、馬鹿じゃないか?
➤これが世の常識である。イエスはことごとくこの反対を言われる。耳が痛いが、世の常識とイエスの教えには、これほどまでに深刻なギャップがあるのだ。
 イエスの言葉は真理である。
 人は悲しんでも、慰めがある。神の御国があるのだ。この世で失敗し、死ぬまで悲しんだとしても、クリスチャンなら神の御国を待ち望み、喜んでいられる。柔和な人は、この世に執着しないゆえ、財産を大胆に分け与え、時間・労力を人のために喜んで使う。神の国に大いなる財産を築いているのである。
 クリスチャンは正しさと信仰に餓え渇く。この世が作り上げた人工的生成物ではない。カネ・名誉・権力ではなく、神の前で正しくされるか否か、確信のある信仰が否かなのである。そこに強い関心があるのだ。そしてそれは、必ず満たされるとイエスは約束してくださっている。6節以降も、まさしく真理である。
 神の御国とその報いは約束されているのだ。そのことの意味が、本当に分かると、12節の喜びが心から溢れ出ます。人間が考えうる範囲で、最も価値のあるものを与えられたからです。

 イエス行動論要約

 イエスは初めに、幸いな人とは誰か、再定義され、大いに喜びなさいと教えられた。説教や伝道は再定義を内包する。この世の常識や計りでは理解不能な御言葉であるからだ。
 クリスチャンはまず、神の御国を信じ、喜ぶ。この世の煩いから解き放たれることで、悲しみに堪え、柔和になり、義に餓え、憐れみ、心清く、平和を実現するために、義の迫害に堪え、生きることができる。全ての苦痛・苦悩に堪えることができ、幸いであると神に感謝し、喜ぶことができる。その根本は、神の御国の約束と報いの信仰である。

 今日の試み

 あなたは、嬉しいときに読む聖句、悲しいときに読む聖句、励ましがほしいときに読む聖句がありますか?
 わたしはこの山上の垂訓を、苦しいときに読み、なぐさめられ、力強められています。そして、読み返すうちに、新たな発見や知恵が与えられます。
 あなたも、このようにMy聖句があるとよいと思います。
 喜んでいるとき、悲しいとき、怒るとき、特に参照する聖句を決めましょう。
 そして、他の兄弟姉妹が強められるように、下にコメントし、御言葉を共有してください。

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2014年9月23日火曜日

【イエス行動論5】 おびただしい病人の癒し マタイ4:23~25

題目: おびただしい病人の癒し マタイ4:23~25

主イエスの伝道が本格化し、多くの病人をいやされた場面です。

 聖句要点引用

 23節、イエスはガリラヤ中を回り、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。
 24節、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへあらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。
 25節、こうして、大勢の群集が来てイエスに従った。

 共に分析

 イエスにより、伝道の基本と奇跡を学びましょう。
イエスは大変活動的であり、熱心である。23節、ガリラヤ中を回った(徒歩)のである。そして、御国の福音を述べ伝えたのである。また、民衆のありとあらゆる病気や患いを癒された。24節、当然ながら、瞬く間に評判はシリア中に広がり、あらゆる病人がイエスにやってくるようになった。25節、一人また一人と増え、大勢の群集となってイエスに従った。
 イエスは伝道といやしを司った。御言葉で御国の福音を、手で患部をいやされた。有言実行である。目の前で行われる奇跡に、人々は驚愕し、イエスに従ったのである。イエスの癒しは、御言葉から始まる。悪霊を追い出すときも、目を見えるようにするときも。神の御言葉に忠実に、そして愛しと確信をもって奇跡を起こすのである。イエスの伝道やいやしは神の教えと愛、そして確信が基本なのである。強い愛がなければ、終わることのない病人の列、おびただしい数の病人に嫌気がさし、いやすのを途中で止めていたはずだ。
 「奇跡」だが、二つの似て非なる意味がある。第一に、「神など超自然のものとされるできごと。人間の力や自然法則を超えたできごととされること。」(wikipedia) 第二に、「統計学的に極めて低い確率でしか起こらない(望ましい)ことの実現。」(wikipedia) この二つは性質が異なるので、明確な区分が必要である。イエスによるいやしは、第一の「奇跡」にて説明されるべきであり、第二の「奇跡」にはまったく当てはまらない。なぜなら、いやしが、神の御心に適う動機と行為であるなら、至極「当たり前」に実現するからである。むしろ、神の御心に適ったいやしが行われないことが、第二の「奇跡」であろう。
 驚くべきことに、聖書には「奇跡」という単語は使われていない。それらは、「神の力」、「驚き」、「しるし」にて言い表されている。神の御業であるならば、肉のいやしは統計や確率が低いうんぬんではなく、人間の理解や力を超越した神の御業なのである。

 イエス行動論要約

 伝道の基本は、御言葉から始まり、愛と確信を持つこと。だから、神の教えを知りなさい。愛しい心を持ちなさい。確固たる信仰を持って確信しなさい。また、イエスによる奇跡は「神の御心」であり、統計や確率ではない。

 今日の試み

 第一と第二の「奇跡」は似て非なるものですが、一見似ていて、意味が重なっているようで、まったく重なっていません。第一の意味≠第二の意味です。 
 奇跡とは何か、考えましょう。
 神の御心とは何か、祈りで求めましょう。

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神の栄光をほめたたえます。ハレルヤ!

2014年9月22日月曜日

【イエス行動論4】 四人の漁師を弟子に マタイ4:18~22

題目: 四人の漁師を弟子に マタイ4:18~22

主イエスが初めて弟子を持つ場面です。

 聖句要点引用

 18節、イエスは二人の兄弟、ペトロとアンデレが網を打っているのを御覧になった。
 19節、「わたし」について来なさい。人間を取る漁師にしよう。(イエス)
 20節、二人はすぐに網を捨てて従った。

 共に分析

 イエスの隣人への理解、正しい伝道方法を学びましょう。
 世の常識では考えにくいことが起こっている。どことなく現れた30代男性の誘い、今まで仕事とした漁をやめて布教すること、に漁師たちが即了承したのである。転職もこれほどのものはなく、ことさら転職先が見知らぬ男性で、業務内容が布教・伝道であると、相当苦慮するはずである。しかし、20節)「二人はすぐに網を捨てて従った。」のである。余程漁業に嫌気がさしていたか、イエスに並ならぬものを感じたか、のどちらかであると考える。実際は両方であり、後者の方が比重が大きい。
 ある意味、本質的なことかもしれない。今の世の中、仕事の安定、安定感のあるキャリアが喜ばれているが、実際の労働者、会社員は期待したほど幸せな日々を送ってはいない。意味を見いだせず、単調な作業に飽き、いつでも代替可能であり、仕事に確信が持てないなど、その原因は複雑だ。漁師もこのような苦しみを経験していたと考えられる。
 18)イエスは漁師たちを「御覧」になられた。彼らの仕事ぶり、表情、その人生全体を見られた。隣人への理解を深めているのである。そして、19節「人間をとる漁師にしよう」とキラーフレーズを発した。漁師の再定義、新しい価値・アイデンティティを付与したのである。弟子のリクルートにおいて、個別の立場や状況に応じた言葉をかけていることが分かる。これは、聞き手を尊重する伝道の仕方である。「共に伝道しよう」や「天の国は近づいた」とも言えたからだ。

 イエス行動論要約

 イエスの伝道は、隣人を理解することから始まり、人の立場や状況に合った言葉を使っている。さらに、言葉の再定義(人間を取る漁師)によって、新しい価値・アイデンティティ・生き方を示した。これは、今の生き方から脱し、新しい生き方へと隣人が行きやすいよう、導いているのである。

 今日の試み

 あなたは、伝道をしたことがありますか。
 どうように行われましたか。
 主イエスの正しい伝道方法に見習い、隣人を理解し、隣人に合った言葉で彼らの生き方を再定義しましょう。そのためには、まず隣人を「御覧」になる必要があります。
 今日、家族でも、友達でも、同僚でも、誰でもよいので、隣人を「御覧」になって、隣人の生き方を親身になって考えましょう。そして、その生き方を神の御心となるよう、言葉で再定義してみてください。主イエスが「魚を取る漁師」を「人間を取る漁師」とされたように。

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2014年9月21日日曜日

【イエス行動論3】 ガリラヤで伝道を始める マタイ4:12~17

題目: ガリラヤで伝道を始める マタイ4:12~17

主イエスがガリラヤにて初めてとなる伝道を始めます。
















 聖句要点引用

 14節、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するため。
 16節、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。
 17節、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(イエス)

 共に分析

 イエスの行動の正しさ、伝道方法を学びましょう。
 14節にあるように、イエスのあらゆる行動は、預言者を通して神が与えられた預言に基づいている。旧約時代に約束された通りにイエスは行動するのだ。神の御心による御計画に基づくイエスの行動は、正しくないわけがない。
 イエスの初となる伝道は、異邦人の地、ガリラヤの湖畔の町カファルナウムにて、行われた。まさに、暗闇に住む民が大きな光を見たのだ。イエスの伝道の発端がイスラエルでなく、異邦の地にあったのは特筆すべきことだ。
 17節) イエスは伝道する際、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言われた。
 イエスは伝道する時、まず罪を悔い改めよとした。現代における伝道の主流は、現代人が抱えるニーズ(ストレスや悩みなど)の治癒を足掛かりに行われている反面、イエスはかなりストレートである。罪の概念をまず説明し、ガリラヤ人が罪人であることを承知させ、赦しを乞う悔悛の姿勢をまず求めたのである。悔い改める必要性、根拠が、第一に天の国とその義を求める動機となる。
 また、イエスは「天の国は近づいた」とされ、時間が迫っていることを示唆した。もはや他人事のように聞き流さず、今すぐにでも悔い改めないとやばいと説いた。しかし、この「天の国は近づいた」は、イエスだからこそ言えるものである。悔い改めよなら私でも言えるが、天の国の様子については、神でなければ、察し得ない。ゆえに、異邦人に対して、相当な確信を持って、権威のある伝道をしたと考えられる。

 イエス行動論要約

 わたしたちが順守すべき最善の行動指針は、預言者を通して旧約時代に預言された神の御計画である。神の御計画に完全に従うイエスは文句なしに正しい。
 イエスは生きた神の御言葉を使って伝道される。「天の国は近づいた」といった、まさに神でなければ、神から御言葉を授からなければ、口にできないものを、伝道するときに発することで、イエスの伝道と言える。そのためには、神から直に御言葉を承る必要があり、それは祈りを通して得られる。

 今日の試み

 あなたは、最善の行動指針である神の御計画を知っていますか。神の御計画は預言者を通した預言によって知ることができ、それらはすべて聖書に書かれています。
 神、人、本、動画、ネットなどで、神の御計画が何であるかの認識を深めてください。
 権威ある伝道のために、御言葉を与えて下さいと神様に祈りで求めてください。
 
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2014年9月20日土曜日

【イエス行動論2】 誘惑を受ける(対悪魔) マタイ4:1~11

題目: 誘惑を受ける(対悪魔) マタイ4:1~11

主イエスが悪魔から誘惑を受ける場面です。











 聖句要点引用

 1節、イエスは悪魔から誘惑を受けるために、”霊”に導かれて荒れ野に行かれた。
 2節、四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
 3節、悪魔は、空腹を覚えたイエスに石をパンにしたらどうだと誘う。
 4節、人はパンだけでなく、神の御言葉で生きるとイエスは答えた。
 6節、悪魔は御言葉を使って、より巧妙にイエスを誘惑した。
 7節、イエスは上位の御言葉で受け答えた。
 9節、悪魔は、イエスの屈服を条件に、世のもの全てを与えると誘惑する。
 10節、超上位聖句で一蹴。

 共に分析

 主イエスの受けた誘惑の種類と、彼の忍耐、戦法、知恵を学びましょう。
 誘惑にも色々な種類、あるいは段階があることが分かる。マズローの欲求段階説とうまくマッチしている。欲求段階に準じて、3節)空腹という生理的欲求が、6節)神の御業の要請という自己実現の欲求が、9節)国々とその繁栄が与えられるという誘惑が、認められる。したがって、どのような境遇においても、人は誘惑の対象となりうる。
 軽く見逃しがちだが、2節)四十日間断食されたとある。四十日という途方もなく、苦しい時間。試練によっては、非常に長く忍耐しなければいけないことが分かる。
 一番興味深いのは、神の御言葉にヒエラルキーがあり、優先順位があることである。6節)悪魔が援用した聖句は神の御言葉であり、でっちあげでも、デマでまなく、まことの御言葉だ。しかしイエスはより上位の聖句でもって受け答えたのだ。
 聖句に基づいた誘惑は巧妙だ。神の真理を含むからだ。これらの誘惑に対するイエスの戦法は、もっと優先順位の高い御言葉で受け答えることだ。
 最終的には10節)「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」といういわば超上位聖句で悪魔の誘惑を一蹴するのだが、ここに知恵が認められる。そもそも、御言葉を知らなければ、この戦法は使えない。そして、御言葉同士の関係、優先度も知らなければならない。聖句による理論武装がイエス流の悪魔退治なのだ。
 +α:我々は、聖句で持って誘惑する輩に注意すべきである。彼らの動機は悪だが、口は真実の言葉を使っているからである。そして、それに反論するためには上位の聖句を知っている必要があり、ここに知恵と賢さが重要となる。

 イエス行動論要約

 様々な種類と段階による誘惑、さらに御言葉に基づいた巧妙な誘惑に対応するには、イエスの忍耐、上位聖句を使う戦法、御言葉を熟知している知恵を見習うとよい。

 今日の試み

 悪による誘惑を忍耐するための知恵を祈りで求めましょう。 必要であれば、どのような種類の、段階の誘惑を受けているか、書いてみるとよいです。
 5分でもよいので、集中して祈りましょう。

ブログ訪問、ありがとうございました。
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2014年9月19日金曜日

【イエス行動論1】 イエス、洗礼を受ける マタイ3:13~17

題目:イエス、洗礼を受ける マタイ3:13∼17

主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受ける場面です。
















 聖句要点引用

 14節、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか(ヨハネ)」
 15節、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです(イエス)」
 17節、「これは、わたしの愛する子、私の心に適う者(神)」

 共に分析

 14節、洗礼者ヨハネは神の子である主イエスを洗礼することに思いとどまっている。当然だ。人間の常識は、神の子であるイエスは一人間によって洗礼されえないと考えるからだ。
 しかし、イエスは「正しいことをすべて行う」と答え、ヨハネより洗礼を受けた。
 ”正しいこと”とは何か。それは神の御計画であり、具体的には旧約時代の預言が成就することである。行動の是非は、世の常識ではなく、神の御計画によって判断するべきことがここで分かる。
 主イエスの場合、神の子であるがゆえに神の望みと計画を熟知していた。しかし、クリスチャンは総論として神の御計画を知ってはいる(最後の審判など)ものの、洗礼を授けるべきか否かのような日々の個別ケースには確信を持てない。「神ならどうするか、神の望みは」など、人間の頭ではまったく見当がつかないからである。目先の出来事などの個別ケースに対する確信については追々記したい。
 17節、イエス行動論の意義を裏付ける最も本質的な聖句である。神が報われる行いとは、神の御心に適う行いである。主イエスは神の御心に適う者であるから、主イエスから学ぶことは必然である。御心に完全に適えない人間から学ぶより、はるかに有益である。

 イエス行動論要約

 我々は、意思決定時に、この世の常識、人間的な考え方を自覚し、それと距離を置き、神の御計画に従うよう努力することで、主イエスの“正しさ”に近づく。

 今日の試み

 この世に煩わされず、正しさを知ることができるよう、神の御計画を祈りで求めましょう。
「あなたの、御計画は何ですか。この場合、何が正しい行いですか。神様教えてください。」
 5分でもよいので、集中して祈りましょう。

ブログ訪問、ありがとうございました。
神の栄光をほめたたえます。

1部 イエス行動論の目的・進め方・構成

 イエス行動論は、

 主イエスの行動、言動から、クリスチャンとしてどう生きるべきかを学びます。
クリスチャンとして、いかに生きるべきか。どのような行いをするべきか。誰を見習えばよいのか。何が真実なのか。クリスチャンの理想的なロールモデルである、主イエスから共に学びましょう。

 イエス行動論の目的は、

私たちの行いを通して神の栄光を高めることです。

 進め方は、

主イエスが登場される新約聖書(新共同訳)、マタイの福音書から聖書を題目別に読み、イエス行動論を考えます。 

 記事の構成は、

題目➡聖句要点引用➡共に分析➡イエス行動論要約➡今日の試み

以上のような流れで考えています。

題目の中の聖句を引用し、それらを分析して、イエス行動論を抽出し、具体的な実践へ活かす設計です。

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2014年9月18日木曜日

ブログの目的・構成

 初めまして、罪深き大学生クリスチャンのserverです。慶應大学2年生です。

 このブログはクリスチャンとして心得るべきことを共に考えます。
 具体的には、信仰、善い行い、伝道、受け答え、考え方などを聖書に基づいて本気で考えます。
 クリスチャン向けに書いていますが、クリスチャンでない方も歓迎します。

 ブログの目的は、

  第一 神の栄光を高めること
  第二 隣人の栄光を高めること
  第三 神の子として世の光となること
 
 以上、三つがあり、優先度に基づいた順番となっています。

 ブログの構成は、

  1部 イエス行動論(行い)
  2部 信仰(真実)
  3部 クリスチャンQ&A(受け答え)

 以上、三つを考えております。

 1部は、主イエス御自身の行動や受け答えから、クリスチャンとしてどう生きるべきか考えます。クリスチャンの理想的なロールモデルは、主イエスであるからです。

 2部は、ローマの信徒への手紙を軸に、クリスチャンとして最も重要な信仰について考えます。諸説あり、漠然としている現在の信仰状態では、救いがないからです。

 3部は、「キリスト教の精髄」(著:C.S.ルイス)に基づいて、クリスチャンがよく受ける難題への受け答えを考えます。クリスチャンはみな、他者に説明するための準備がいるからです。

 ブログ訪問、ありがとうございました。
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