2015年2月5日木曜日

【イエス行動論51】 悔い改めない町を叱る マタイ11:20~24

悔い改めない町を叱る マタイ11:20~24

主イエスの「叱り」方。

 聖句要点引用

20節、それからイエスは、数多くの奇跡を行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。
21節、「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めにちがいない。
22節、しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりも軽い罰で済む。
23節、また、カファルナウム、お前は天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。
24節、しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」

 共に分析

 イエスによる愛の叱り方とその意味を学びましょう。
 今日の御言葉では、主イエスの嘆きと怒りが認められます。主イエスの感情を重く受け止めたいと思います。
 人を「正しく叱る」には多くのエネルギーと知恵が必要です。そして、愛が必要です。わたしたちは、不法や不合理、無礼を行うと叱られ、または、それら目にすると叱ります。主イエスはどのように叱られたでしょうか。
 主イエスは、まず嘆かれました。21節、~不幸だ~不幸だは、感動詞です。「ああ」「はあ」という単語と同義です。叱りのスタートは、怒りや憎しみではなく、悲しみと嘆きから来ています。次に、嘆かれている理由を言われました。世俗的な異邦人の町と知られる、ティルスやシドンよりも罪深いと言い、その悔い改めの「なさ」を指摘しています。そして、その結果大きな罰を受けることになるとはっきりされました。
 主イエスの叱りのポイントを洗い出すと、①叱りの動機は悲しみと嘆き、②悲しんでいると伝え、その後に何が悪いのか理由を言う、③その結果どうなるか(罰)をはっきりする、となります。
 怒りにまかせて叱ったり、何が悪いのか言わずに叱ったり、悪さへの罰を明確にせず叱ったりするのは、主イエス的ではありません。また、悪口が一切ありません。主イエスは、叱られるときに、悪口を使われませんでした。

 主イエスをこれほど悲しませた、嘆かせたのは一体何でしょうか。
 人間の「悔い改めない」姿です。主イエスの奇跡を経験するという、今のわたしたちが首から手が出るほど欲しく、うらやむ神の祝福を受けてもなお、悔い改めない。目が見えない人が見え、足の不自由の人が歩き、重い病気を患っている人が清められ、死者が生き返っても、悔い改めない。
 現代を生きるわたしたちの中で、多くの人が、奇跡さえ見せてくだされば確信すると考えているのではないでしょうか。その奇跡を見れば、必ず信じようと考え、奇跡を起こらないことにがまんできなくなり、神などいないと結論付け、神から離れてしまいます。
 しかし、果たしてそうでしょうか。奇跡さえ見れば神を本当に愛し、本当に信じ、悔い改めるでしょうか。
 聖書には、特に旧約聖書には、奇跡を経験しても不道徳・罪を犯し続ける人間の姿がいやなほど書かれています。そこから得られる教訓は、奇跡は祝福であり、完全ではないことです。完全なのは、神の救いという祝福と、人間の悔い改めなのです。奇跡はあったらよくて、なかったらないだけだが、悔い改めは必ず必要なのです。
 21節、コラジン、ベトサイダ、23節、カファルナウムは、奇跡を人間中心的に解釈したと考えます。奇跡や祝福を、自分の努力や能力のおかげであると解釈するのです。神がわたしたちのために奇跡を行われたのは、わたしたちが優れているためだなど、間違った選民思想などに酔いしれて、自らの罪を顧みることはなかったと思います。23節「天にまで上げられる」は、自らが神となる、神となろうとする、甚だしき思い上がり、傲慢を指摘しています。
奇跡は万能薬ではないのです。奇跡を受け入れ、解釈するのは罪深き人間だからです。
 実は、次の御言葉に赦しの言葉を言われるのですが、今日は叱りの部分だけに区切ります。

 イエス行動論要約

 イエスの「叱り」には三つのポイントがありました。①叱りの動機は悲しみと嘆き、②悲しんでいると伝え、その後に何が悪いのか理由を言う、③その結果どうなるか(罰)をはっきりする。イエスを悲しませ、嘆かせたのは、人々の不信仰、つまりその「悔い改めない」姿でした。

 今日の試み

 悔い改めとは、何でしょう。
 わたしは、毎日悔い改めの祈りを捧げています。十字架によって、永遠に赦され、救われていますが、毎日神中心的ではないこと、つまり罪を犯してしまうからです。
 わたしがいつもイメージする悔い改めの流れは以下のとおりです。
 自分の罪を自覚する➡その罪深さに嘆く➡主イエスの十字架による救いと赦しを信じる➡心から赦しを求める➡赦され、新たにされたことを信じる➡感謝する➡心を新たにする➡新たに生きる…➡自分の罪を自覚する。
この悔い改めを、1週間、1カ月間、1年間、10年間やっていくと、その変化に驚かされるはずです。心がどんどん清くなり、悪や罪を離れ、神中心的に生きることができるようになります。

 奇跡のテーマを取り上げるとき、いつも思うことがあるので、少しだけ書きます。わたしたちは、超自然的な奇跡を欲しますが、上記のとおり、それが即確信につながる万能薬ではないことです。あなたに、悔い改めの心と神を愛し、神中心的に生きたいという心がなければ、効き目がありません。むしろ逆効果になる危険性もあります。しかし、わたしが強調したいのは、これよりも、私たちの日常、常識の「中に」、奇跡があるということです。地球、自然、植物、動物、人間、宇宙、愛、美しさ、音楽、知恵など、わたしたちが常識として普通に接しているあらゆる事物の中に奇跡があるのです。神の性質が見出されます。この世をそのような心で、目で見ないから、感じられないだけなのです。奇跡奇跡と性急に求める前に、それを受け取る器になること、そして本当の意味で奇跡とは何かを考えることが知恵のある者のするべきことではないでしょうか。


兄弟姉妹のみなさん、一人一人を愛します。
ありのままのあなたを愛します。I love you.
神の栄光をほめたたえます。ハレルヤ!^0^
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2015年2月3日火曜日

【イエス行動論50】 洗礼者ヨハネとイエス② マタイ11:7~19

洗礼者ヨハネとイエス② マタイ11:7~19

主イエスの他者理解の姿勢。


 聖句要点引用

12節、彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。
15節、耳のある者は聞きなさい。
16節、今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。
17節、「笛を吹いたのに踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに悲しんでくれなかった。」
18節、ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、「あれは悪霊に取りつかれている」と言い、
19節、人の子が来て、飲み食いすると、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。

 共に分析

 イエスの他者への姿勢とたとえの意味を学びましょう。
 「わたしはチーズのようだ。」「彼女は微生物のようだ。」これらの例え方は主イエス的になり得ます。主イエスは、17節にある通り、意識的に聴衆向けのたとえを用いられました。したがって、料理人にはチーズのたとえを、科学者には微生物のたとえを用いるでしょう。ここに、メッセージや伝道の伝え方の極意があるのです。日本人はキリスト教の存在について認識しており、その主張する教義についてもある程度の知識を持っています。日本の人々に、「あなたは救われた」、「神はあなたを赦される」、「十字架を背負いなさい」などと伝道することは、相手にもよりますが、大方知恵のある行動ではないでしょう。主イエスは、まず日本人の人々がどのような人なのか、どのような文化で持っているのか、どうゆう物の捉え方をしているかを、つぶさに見られます。そして、その人々に合った、適切な方法で教えられるのです。つまり、伝道や教えは、相手を最大限理解しようとする姿勢が重要なのです。一人一人、背景も育ちも考え方も異なるからです。主イエスのような姿勢を持ってください。相手に関心を持ち、相手に合った形で話しましょう。
 当時の子共たちは、今もあると思いますが、結婚式ごっこや葬式ごっこをやっていました。子供たちの遊びで、かくれんぼや鬼ごっこみたいに誰でもやったことがあり、知っていることです。主イエスは他者を理解しようとするその姿勢により、当時の人々が結婚式ごっこや葬式ごっこで遊んでいたことを見たのです。したがって、17節のようにたとえられました。
 17節のたとえは、人々が救いの御手を拒絶する様子をたとえています。
 「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった」これは結婚式ごっこですが、主イエスの降臨というこの世において最高の出来事が起き、空前の祝祭ムードになるはずが、誰も踊らないーつまり誰も喜んでいない現実を的確に指しているのです。主イエスがもたらした福音と祝福を、人々が拒絶しているのです。
 「葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった」これは、18節に言及されている洗礼者ヨハネのことを指すと考えています。これははっきりわかりませんが、現時点でこれが一番妥当な解釈だと考えます。洗礼者ヨハネは、禁欲的な生活を送り、人々に「悔い改めなさい」と教えられました。己の罪深さを嘆き悲しみ、悔悛を求めたのです。その厳しく、悲しい教えは、主イエスと対照的で、その意味で葬式の歌であると考えます。このたとえにも、人々がヨハネの教えを受け入れない様子がたとえられています。
 このように、ヨハネや主イエスの教えを聞かない、受け入れないため、15節、「耳ある者は聞きなさい」と言っているのです。

 イエス行動論要約

 イエスは他者を理解する姿勢を通して、人々の不信仰と救いへの拒絶をたとえられました。

 今日の試み

 本当に誰かを救いたいと思うならば、その人を本気で理解する必要があります。隣人愛の実践とは、抽象的にみなを愛することではありません。みなを愛するという意味では平等性がありますが、その愛は具体的であるべきです。救いたい人のことをもっと知りましょう。その人はどういう過去があり、どういう文化で育ち、どういう考え方を持ち、今どういう境遇にあるのかなどを熱心に知ろうとする姿勢を身に付けましょう。愛の反対は無関心なのです。主イエスは目の前の相手をつぶさに見られ、他者を理解されます。

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2015年2月2日月曜日

【イエス行動論49】 洗礼者ヨハネとイエス① マタイ11:2~6

洗礼者ヨハネとイエス① マタイ11:2~6

主イエスによる、洗礼者ヨハネへの御言葉。
















 聖句要点引用

2節、ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、
3節、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
4節、イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。
5節、目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
6節、わたしにつまずかない人は幸いである。」

 共に分析

 イエスの知恵と慈しみを学びましょう。
 主イエスを信じない人たちも、主イエスについて知っている人たちは、主イエスの知恵を認めます。主イエスのたとえ、解釈、教えには知恵の宝石がちりばめられており、ノンクリスチャンも多くを得ています。今日の御言葉で主イエスの知恵が如実に表れているのは5節の箇所です。知恵とは、対象とする事物の知識を有し、目的を達成するために知識を応用することです。実は、5節は旧約時代の預言者イザヤが預言したものに基づいています。
 イザヤ書35:5~6
5節、そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が聞く。
6節、そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。
 内容が非常に似通っているため、おそらくこの預言を意識して語られたと考えます。
 つまり、まず知識のレベルで、旧約時代の預言に精通し、熟知していたことがわかります。
 しかし、なぜわざわざ預言を想起させる言葉を使ったのでしょうか。ここに、知識の応用である、知恵が認められます。それは洗礼者ヨハネにとって必要な言葉でした。2節と3節を読むことで、ヨハネの心情をイメージできます。ヘロデ王の不法を批判したことで牢に放り込まれたヨハネは、最終的に斬首刑を受けて死にます。3節は、かの洗礼者ヨハネには似つかない言葉です。ヨハネは主イエスが誰であり、なぜこの世に来られ、何をするのか、はっきりとわかっています。主イエスに洗礼を授けた人です。にもかわらず、さらなる確証を求めています。おそらく、過酷な投獄生活、死への恐怖、想像していた主イエス降臨が合っていなかったため、心が弱くなったと考えます。では、ヨハネにとって何が確証となるのでしょうか。
 「預言」です。預言とは文字通り、預かった言葉である、それは預言者を通した、神ご自身の言葉なのです。したがって、有無を言わせない絶対性があり、確証となり得るのです。主イエスが、旧約時代の預言をベースに、その預言が成就していることを伝えなさいとしたのは、こういう理由があったのです。
 さらに、ヨハネの弟子たちに6節、「わたしにつまずかない人は幸いである。」と言いました。ヨハネのつまずき、いわば不信仰に慈愛の言葉で接したのです。つまずきを覚えているヨハネにとって、主イエスの返答は宝のように頼もしく、救いとなったはずです。

 イエス行動論要約

 イエスは、洗練者ヨハネに確証と慈しみを与えました。預言の成就で確証を、御言葉で慈しみを。

 今日の試み

 洗礼者ヨハネはマタイ11:11にありますが、「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者より偉大な者は現われなかった。」とあるように、ナンバーワンクリスチャンです。しかし、そのヨハネですら、過酷な試練にぶつかり、確信が揺り動かされました。これは、人間として仕方のないことかもしれません。ただ、ヨハネが優れていたのは、神に確信を求めたことです。試練に直面して、神に背いたり、諦めたりするのではなく、耐えながら求めたのです。
 あらゆる誘惑に無敵であるのがクリスチャンではなく、倒れても神を求めて再起できるのが本当のクリスチャンであると信じます。人間は人間なのです。それ以上も、それ以下もないのです。

兄弟姉妹のみなさん、一人一人を愛します。
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2015年1月30日金曜日

【イエス行動論48】 受け入れる人の報い マタイ10:40~42

受け入れる人の報い マタイ10:40~42

主イエスによる、伝道者への御言葉。

 聖句要点引用

40節、「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。
41節、預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。
42節、はっきり言っておく。わたしの弟子であるという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。

 共に分析

 イエスの教え方とその本質を学びましょう。
 イエス行動論では、文字通り主イエスの行動に注目します。
 わたしたちクリスチャンは、主イエスとともに十字架を背負い、霊的に主イエスに近づく信仰生活を送るよう努力し、願っています。
 わたしが主イエスであったら、弟子たちにどのように教えたのか、と思考を巡らすのは、有益であります。
 今日の御言葉のキーワードは「受け入れ」と「報い」であり、その本質は、「喜びを持って神中心的に生きる」ことであると信じます。
 「受け入れ」と「報い」を、弟子たちに教えられた動機を考えると、主に二つあると考えます。この御言葉は、弟子たち、伝道をする者としては感謝しきれない、感動の御言葉です。一つに、伝道の使命感と正統性を確信するからです。伝道は、やってみると痛いほどわかりますが、非常に困難です。相手に、これまでの行いの悔い改めをどこかで要求することになるので、それへの反発・拒否反応が起こるからです。つらいことが起きると、人はそもそもなぜ伝道をしたのかと自問し、原点回帰します。その問いへの答えを、主イエスが今日の御言葉で教えられているのです。それはつまり、40節にあるように、弟子たちの伝道が、主イエスと神と有機的につながっていること、伝道を受け入れる人には必ず報いがあることです。弟子たちの伝道を受け入れることが、主イエスを受け入れることであり、さらに神を受け入れることであるということは、弟子たちの伝道が正しく、真理に基づくことを表します。これ以上のお墨付き・太鼓判はありません。まさに、神の御使いとして働くことのできる栄光を噛みしめたはずです。
 二つに、報いが約束されることによる、伝道の喜びです。41/42節より、伝道を受け入れる人は必ず報いを受けることが約束されています。伝道を行う者として、報いが保障されているのは、とてうもない励みとなり、喜びにつながります。多くの人に報いを届ける働きには大きな喜びがあるのです。
 では、「受け入れる」とは何でしょうか。
 42節に答えがあります。ポイントは”わたしの弟子であるという理由”です。
 お冷を出すことは一つの例であり、その自体に何かの意味があるとは思えません。
 ”イエスの弟子、使いだからお冷を出そう”-これが「受け入れる」ことです。
 伝道している人たちを主イエスの弟子、使いであると認識し、彼らの福音を聞き、受け入れ、愛を持って彼らに接する-この全体的なプロセスが「受け入れる」ことであると信じます。

 イエス行動論要約

 イエスは、伝道者のために、伝道の使命に正統性を与え、その喜びを報いで教えられました。

 今日の試み

 縁あって、私は今日モルモン教信仰者の友達と会う約束をしています。電車の駅で「こんにちは」と話かけられたのが接点でした。わたしは「真理」に並ならぬ関心を持っていて、いつも「真理」を追い求めていますから、彼の話は大変興味深いものでした。シンガポールからはるばる日本に宣教師として来た彼は、神の子に見られる、輝きがありました。目に輝きがあったのです。
 家に帰って、パソコンを開いてモルモン教について調べてみると、大方異端視されていること、2012年度米国大統領選挙でオバマと競ったミット・ロムニー候補者がモルモン教徒であることなどがわかりました。それまで、「モルモン教」という単語を知っているだけで、何を信じていて、何が異端視されているのかきちんと考えていませんでした。
 クリスチャンとして、まず神にお祈りを捧げ、愛を持って彼に接していきたいと思います。もしかしたら、わたしが知らないだけで、モルモン教が神様の目から見て正しく、真理なのかもしれない、と考える謙虚さを持って、その真理のほどを確かめたいです。
 今日の御言葉から学んだように、まずは、彼を「受け入れる」のです。

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2015年1月29日木曜日

【イエス行動論47】 平和ではなく剣を マタイ10:34~39

平和ではなく剣を マタイ10:34~39

イエスの愛の厳しい教え。














 聖句要点引用

34節、「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
35節、わたしは敵対させるために来たからである。人はその父に、娘は母に、嫁はしゅうとめに。
36節、こうして、自分の家族の者が敵となる。
37節、わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
38節、また、自分の十字架に担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。
39節、自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。

 共に分析

 イエスの教え方とその本質を学びましょう。
 
 言うまでもなく、今日の御言葉は非常に厳しいものです。愛する家族との敵対、十字架を背負う人生は、とても厳しい要求です。他の教えよりも誤解されやすい御言葉なので、普段より文字数を多くしています。
 イエスの行動に着目してみると、その教え方に愛が垣間見えます。このような厳しい教えを聞いた弟子たちと群衆は、どう受け止めたでしょうか。その教えに賛同する者もいれば、反発したり、つまずきを覚えた者もいるでしょう。自己中心的な人間の自然の反応からすると、後者が圧倒的ではないでしょうか。大半は、心の中で「家族との敵対?自分の命を失う?そんなことできるわけないだろう」と思ったはずです。現代では、この聖句箇所を指してキリスト教の暴虐性を問題提起する者もいます。厳しい教えによって、主イエスに敵対する者が生じるリスクがあるのです。このように、つまずきが起きることを知りつつも、教えられた理由は何でしょう。
 弟子たちを、群衆を心底憐れに思い、真に愛されたからこそ、真理の言葉を教えられたのです。本当に人間のことを思うからこそ、一般受けしない、耳に痛い真理をも躊躇せずに伝えたのです。「すべて平和だよ。家族とも平和があり、自分の命を失う、十字架を背負う必要もないよ」といった、甘やかしは無責任極まりない教えです。人が聞きたがる教えではなく、真に聞くべき教えを伝える主イエスの愛と勇気を学びましょう。
 
 この御言葉の本質は何でしょう。
 間違っても、「家族と敵対せよ」「自分の命を投げ捨てよ」と勘違いしてはなりません。
 この御言葉の本質は、「第一に神の国と神の義を求めなさい」であると信じます。
 御言葉の要点を二つに分けて共に分析しましょう。
 一つ目、愛する家族との敵対です。
 これは、最も重要ななものよりも神様を優先しなさい、との教えです。罪深いこのこの世において、主イエスの信仰への反発はごく自然なものです。その中には、主イエスの信仰を受け入れる人たちと、信仰を拒む人たちがいます。その境目が、家族の中にあるとき、信仰が最も試されます。自分の親、兄弟、子ども、親族に大反対され、恨まれても主イエスを求め続けられるか。すなわち、自分にとって大切なものを捨てても、主イエスを愛し、求められるか。それが問われているのです。自分の信仰が完全なものか、条件付きのものか、判断できる試練です。救いは、実に狭き門なのです。核家族化が進み、徐々に家族との絆が希薄化している現代人にとっても、家族は代えがたい存在だから、試練となり得るのです。

 二つ目、十字架を背負う人生です。
 これは、自分よりも神様を優先しなさい、との教えです。
 一つ目は家族を諦めることでしたが、今度は自分を諦めることです。
 クリスチャンの究極的葛藤は、己vs神にあります。自己中心vs神中心です。
 「命を失う」とは、自殺ではなく、自分の自己中心、不信仰を捨てることを意味します。十字架の血潮によって罪を赦され、新しく生まれ、神中心になることで、「命を得る」のです。
 自分が最もかわいく、自らの生存・保身・私利私欲・幸せ・快楽のために生きるのではなく、そこから転じて、神がもっとも偉大で、神の栄光を高めるために生きるのです。この、神の栄光を高める道が、「十字架を背負う人生」です。この世の富・地位・名誉・快楽などの誘惑との戦い、伝道時に受ける迫害・差別・冷やかしとの戦い、肉親の死去などの悲しみとの戦い、肉親の殺人などの憎しみとの戦い、社会の不条理などとの戦い。この世で神中心的に生きると、このように大変な苦痛・葛藤が求められます。誘惑に屈せず、迫害に負けず、悲しみから希望を見出し、憎しみを善に転換し、不条理を耐え抜く-決して容易ではありません。誘惑に甘んじて、やりたい放題できればどれほど楽でしょうか。悲しみや憎しみをそのまま悪で相手に報復できます。不条理を不条理でやり返せます。しかし、その衝動に耐え、困難な道を歩み、その中で至福の喜びと希望を見出すことこそが、永遠の命へとつながる人生の歩み方なのです。

 イエス行動論要約

 イエスは、愛を持って人が聞きたがらない真理を教えられました。その厳しい教えは、家族よりも、そして自分よりも、神を愛し、追い求めることです。

 今日の試み

 今、試練の渦中にいますか。信仰が試されていますか。信仰が揺れていますか。
 まず、祈りを通して、神に寄り頼んでください。決して、己の力で、解決しようと思ってはなりません。妥協もしてはなりません。神と共に、聖霊に満たされ、イエスの赦しを糧にするならば、どんな試練も必ず乗り越えられます。

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2015年1月28日水曜日

【イエス行動論46】 イエスの仲間であると言い表す マタイ10:32~33

イエスの仲間であると言い表す マタイ10:32~33

人間的解釈の芽を摘む簡潔な教え。















 聖句要点引用

32節、だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。
33節、しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。

 共に分析

 イエスから、はっきりした教え、教えの本質を学びましょう。
 
 主イエスの教えは明快です。理路整然としていて、はっきりしています。とりわけ今回の聖句はグレーゾーン/灰色がまったくなく、白黒はっきりしています。32節、Aをすれば、わたしもAをする。33節、Aをしなければ、わたしもAをしない。このような教えは、非常に分かりやすく、ゆえに実りある霊的成長につながります。
 この教え方の最も重要なメリットはその分かりやすさよりも、教えの解釈への耐性です。教えに少しでもグレーゾーンや解釈の余地が見出される場合、人間中心的な解釈によって、教えそのものが骨抜きにされる危険性があります。例えば、旧約時代の「隣人を愛しなさい」という律法は、隣人と言う単語が曖昧であり、結果的に「敵は憎み、殺してもよい」と解釈されました。後に、わざわざ主イエスが「敵を愛しなさい」と言う必要がありました。今回の聖句はその点で、人間が勝手に解釈し、御言葉を骨抜きにする余地はほとんどないでしょう。
 「ほとんど」と言った理由は、32節、「言い表す」の部分に若干の解釈の余地があるからです。きわどいところですが、少し考えてみると、言い表し方(語調・音量・言語・態度・回数・時制)など、「言い表す」をなし崩しにする切り口がたくさんあるのです。極論を言えば、①友達の前でさりげなく、ぼそっと、友達の分からない外国語で言い表す。②20年前教会の信徒の前で言い表したので、今は知らないと言ってもよい。③相手に真実・意味が伝わらないよう、語調や態度を工夫して言い表す、などなど。なんだか憲法解釈や国会答弁と瓜二つになってきました。
 色々な解釈が乱立し、一通り混乱期が過ぎると、初心に、つまり本質に立ち戻る必要性を感じるものです。本質を、教えの真理を理解することで、解釈うんぬんの議論に時間を費やさなくてもよいからです。神より頂いた知恵を持って神中心的に考えるならば、いついかなる場合でも、主イエスの仲間であると言い表すことが正しいとすぐわかります。このように思考がシンプルかつ正しい所以は、前述したように、解釈の余地を締め出す主イエスの教えにあるのです。

 イエス行動論要約

 イエスは、誰が聞いても明らかな、理路整然として方法で教えられました。シンプルかつ簡潔な教えは、人間中心的な解釈の余地を閉ざします。

 今日の試み

 イエスの教え、神の御言葉を誰かに話すとき、イエスがされたように、明快かつシンプルに教えましょう。勝手な解釈や誤解などでつまずかないよう、特別に言葉を選んで教えましょう。そのために必要な訓練・鍛錬に喜んで臨みましょう。

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2015年1月27日火曜日

【イエス行動論45】 恐るべき者 マタイ10:26~31

恐るべき者 マタイ10:26~31

クリスチャンの”正しい恐れ”と神の絶対的な愛

















 聖句要点引用

26節、人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。
28節、体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
29節、二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。
30節、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。
31節、だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。

 共に分析

 イエスから、正しい恐れと神の絶対的な愛を学びましょう。
 
 わたしたちは、実に多くの恐れを抱きます。26節、イエスは人々を恐れてはならないと教えました。恐い人、多くいませんか。暴力を振るう者、殺人する者、脅迫する者、強盗する者、差別する者、極端な思想を持つ者、権力を濫用する者、などなど。平和な日本と言いますが、夜道を気楽に歩けることはできなくなりました。後ろに誰かがいると、自然と歩調が速くなるのはわたしだけでしょうか。
 しかし、わたしたちが真に恐れるべきは、つまり”正しい恐れ”は、神による審判です。審判のいかんによって、天国か地獄かが決まります。地獄行きとなれば、28節にある通り、体も魂も滅ぼされます。28節を心から受け入れ、”正しい恐れ”を知って行動する兄弟姉妹は、世界屈指の勇気ある人物となるでしょう。神の審判以外にもはや真の恐れを覚えないからです。魂を殺すことのできない者たちに恐れず、十字架刑を引き受けた主イエスに似ていくのです。
 人々を恐れる必要のない理由として、主イエスは神の絶対的な愛を教えられました。その愛を、主イエスは、29節から31節のすずめのたとえで説明しています。29節、すべての出来事、現象は神の許し、つまり神の深い計画の下、行われていることがわかります。30節、創造主でおられる神はわたしたち一人一人をつま先から頭まで、すべて知っておられ、すべて覚えておられることがわかります。そして、31節、神はわたしたち人間を最も愛しく思われていることがわかるのです。すべての出来事が神の絶対的な御計画のもとで行われ、わたしたち全員が神に覚えられ、愛されているのです。この世に対する、人に対する、すべての恐怖は溶けてなくなります。

 イエス行動論要約

 イエスは、神の審判という”正しい恐れ”と、すずめのたとえで神の絶対的な愛を教えられました。

 今日の試み

 あなたは、今恐怖の中にいますか?何かに恐れていますか?
 心配しないでください。恐れないでください。今日の御言葉を読み返してください。
 あなたに起きているすべての事柄は、全知全能なる神の支配下にあり、神の御計画です。そして、神は、あなたの現状と状態をすべて知っておられ、あなたに深い愛を持たれています。この確信によって恐怖に打ち勝ってください。打ち勝てるよう、御言葉を肝に銘じ、神に祈りましょう。

兄弟姉妹のみなさん、一人一人を愛します。
ありのままのあなたを愛します。I love you.
神の栄光をほめたたえます。ハレルヤ!^0^
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2015年1月24日土曜日

【イエス行動論44】 迫害を予告する マタイ10:16~25

迫害を予告する マタイ10:16~25

つまずきと迫害は必ず起こる。その乗り越え方を神は見られる。














 聖句要点引用

16節、わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。
17節、人々を警戒しなさい。会堂で鞭打たれるからである。
18節、また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。
19節、何をどう言おうかと心配してはならない。
20節、実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。
21節、兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。
22節、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
23節、一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げなさい。
25節、弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。

 共に分析

 イエスから、迫害がどんなものか、どのように乗り越えるかを学びましょう。
 
 迫害とは何でしょう。まず、迫害が起きる、この世がどんなとこであるか、16節、21節、22節にて主イエスは教えています。16節、この世を「狼の群れ」と例えています。神の子であり善良な羊を噛み殺す悪という意味です。21節、この世の災いの恐ろしさを例えています。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺す。」想像をぜする悪夢ですが、実際ニュースで報道されており、現実にこの世で繰り返し起きています。そして、22節、この世が神と真実を憎むことを、「あなたがたはすべの人に憎まれる」と教えています。この世は、罪深いものであることが強調されているのです。具体的な迫害としては、「すべての人に憎まれる」ことから、17節、鞭で打たれる、18節、引き出されて証しをさせられるなどです。
 現代では、このような、目に見える過激な迫害は目新しいものとなっています。少なくとも、先進国間ではそのような過激的な迫害を「異常」と捉え、法律などで規制している時代です。発展途上国などでは、まだまだ多く残っています。しかし、時代の変遷とともに、迫害もまた、時代に合わせてその形状と性質を変えています。肉体的な暴力は絶対量として少なくなったとしても、精神的な暴力に変貌しています。卑近な例ではキリスト教を宗教化し、カルトというレッテルを貼って、教条を骨抜きにするというのが、よく見られます。伝道への無関心や妨害、クリスチャンへのいやがらせや差別など、未だに迫害ははびこっています。
 感謝することに、主イエスは、迫害を乗り越える方法を合わせて教えています。列挙すると、16節、「蛇のように賢く、鳩のように素直に」、17節、「人々を警戒しなさい」、20節、「父の霊」、22節、「最後まで耐え忍ぶ」、23節、「他の町へ逃げる」、25節、「弟子は師のように、僕は主人のように」となり、全体的にどうすればよいか教えています。これらを文章化すると、迫害を乗り越えるためには父の霊が必須であり、わたしたちの師である主イエスに従うことです。この世を罪深い世と警戒し、賢く、素直に生きることです。迫害を迫害でもって報復するのではなく、耐えて、忍ぶことです。迫害を受けたなら、その場所から離れることです。

 イエス行動論要約

 イエスは使徒たちに、そしてわたしたちに迫害があること、そして迫害の乗り越え方を教えられました。神の栄光を現し、神の御心を行うためです。

 今日の試み

 ヨブ記はクリスチャンと迫害のテーマでとても有名な聖書箇所です。悪魔自身に迫害を受けたヨブは、その清く、強い信仰によって耐え忍び、神を求め続けました。そして、迫害を乗り越え、悪に勝利し、神に祝福されました。聖書を手に取って読んでみてください。

兄弟姉妹のみなさん、一人一人を愛します。
ありのままのあなたを愛します。I love you.
神の栄光をほめたたえます。ハレルヤ!^0^
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2015年1月22日木曜日

【イエス行動論43】 十二人を派遣する マタイ10:5~15

十二人を派遣する マタイ10:5~15

最高の指示をお与えに。

 聖句要点引用

5節、イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。
7節、「天の国は近づいた」と宣べ伝えなさい。
8節、病人をいやし、死者を生き返らさせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。
9節、帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。
10節、働く者が食べ物を受けるのは当然である。
14節、あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落しなさい。
15節、裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。

 共に分析

 イエスの実践的な指示の仕方を学びましょう。
 前回の記事では、主イエスが使徒たちに権限を委譲したことを記しました。今日の御言葉は、委譲した権限をどう使うべきか主イエスが指示された場面です。人に何かをやってほしいとき、とくにやってほしいことが重大であるとき、効果的に指示する必要があります。社長が社員に、先輩が後輩に、先生が学生に、親が子に。主イエスはどのように指示しているでしょうか。
 結論から言うと、主イエスの指示は具体的かつ実践的であり、指示内容の根拠・理由を必ず伝えています。
 主イエスは、神の福音を伝える者として、十二人の使徒を選び、派遣しました。派遣する際、だた一言「行け」とは言わず、使徒たちのために非常に具体的に指示しています。まず、7節、伝道するときに言葉、伝えるべき内容を教えました。「天の国は近づいた」です。使徒たちは、何を伝えたらよいのか迷う必要がなくなりました。そして、伝道という漠然として行為を、具体化したのが8節です。御言葉を伝えることだけでなく、主イエスから授かった権能(権限移譲)によって数々の御業を行うことを指示しました。その後も、9節、お金を持ち歩いてはならない、14節、足の埃を払い落しなさいなど、極めて実践的な指示を下されました。
 「指示」と聞くと、指図する、上から目線で一方的に「やれ」というニュアンスを含むように思われがちですが、「指示」は文字通り、指し示すことで、指示を受ける者としては、むしろありがたいものです。
 主イエスは、指示したことの根拠・理由を言いました。単純に「こうしなさい」では、人は動きません。「こうしなさい。なぜなら…」の部分が不可欠なのです。なぜそれをそのようにする必要があるのかの説明です。なぜ、病気をいやし、よみがえらせ、悪霊を追い出す苦労をしなければいけないのか。8節、主イエスによってただで権能を授かったのだから、ただで与えるべきです。なぜ、お金を待ち歩いてはならないのか。10節、神のために生きる、働く者のために、神が必要なものを与えられるから。なぜ、歓迎されず、御言葉を聞こうとしない人々と平和を保つ必要があるのか。15節、人ではなく、神が人を裁かれるから。

 イエス行動論要約

主イエスの指示は具体的かつ実践的であり、指示内容の根拠・理由を必ず伝えています。理想的な「指示」です。

 今日の試み

 人に何かをお願いするとき、今日の御言葉を考えてみましょう。相手がどうすればよいのかちゃんと分かっているか(具体的かつ実践的)、そして、お願いする理由をちゃんと伝えたか(根拠・理由)。社長が社員に、先輩が後輩に、先生が学生に、親が子に、指示するとき、主イエスのようにすることができたら、どれほど素晴らしいことでしょう。

兄弟姉妹のみなさん、一人一人を愛します。
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2015年1月21日水曜日

【イエス行動論42】 十二人を選ぶ マタイ10:1~4

十二人を選ぶ マタイ10:1~4

権能をお授けに。














 聖句要点引用

1節、イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。
2節、十二使徒の名は次の通りである。まずペトロと呼ばれるシモンと…
3節、…徴税人のマタイ、…
4節、…イエスを裏切ったイスカリオテのユダである。

 共に分析

 イエスの権限移譲と人選に見える確信を学びましょう。

 有名な十二使徒が選ばれ、権能を与えになる場面です。ところで、なぜ主イエスは人間に権能をお授けになったのでしょうか。神は全知全能であり、神の子である、主イエスも全知全能です。人間はどうでしょう。その罪深さゆえに、神の前では無知であり、無能です。そのような者に、神のご計画の実行を任せていいのでしょうか。
 イエスは、神の性質を表す権能を、使徒たちに与えました。これは明確な権限移譲です。イエスの役割を、使徒たちが代わりに果たせるよう、権限を譲りました。中央集権から地方分権というふうに。主イエス、つまり神が主導して地上で神の御心を達成するよりも、被造物であり、自由意志を持つ使徒、ひいては私たち全員が主導することに、大きな価値を見出していると考えられます。神が望むなら、今すぐにでも全人類の目の前に現れ、奇跡を見せ、みなを服従させることができるでしょう。そうしない理由、そして権能を譲られた理由を考えてみましょう。
 主イエスの人選はいかがでしょう。これから人類に福音を宣べ伝える重責を担う人を選ばなければなりません。あなたなら誰を選びますか?わたしなら、人類代表として、誰よりも賢く、清く、覇気があり、愛のある人を選びます。偉大な計画を全うするのは、偉大な人間です。
 しかし、どうしたことか、主イエスは、地方出身の漁師(ペトロ、アンデレ)や徴税人(マタイ)、裏切り者(ユダ)などを使徒として選ばれました。学識もない無学な漁師、帝国をバックに税を上乗せして徴収する徴税人、主イエスを銀貨30枚で売り渡した裏切り者。最低な人選に見えます。しかし、その伝道の成果は素晴らしいものでした。「A comprehensive demographic study of more than 200 countries finds that there are 2.18 billion Christians of all ages around the world, representing nearly a third of the estimated 2010 global population of 6.9 billion.」2011年と若干古いですが、Pew研究所の人口調査結果の引用文です。英文にある通り、2010年の時点で世界の22.8億人がクリスチャンであり、当時の全人口69億人の約3分の1を占める規模になっています。この十二使徒から、ここまで成長したのです。宗派は分かれていても、世界の3人に1人がクリスチャンなのです。この偉大なる功績は、選ばれた使徒たち自身の努力と能力だけでは説明不可能です。だれがこの功績を彼らを見て予見できたでしょうか。鼻で笑ったことでしょう。これは、神の導きと働きなしには説明できません。したがって、人間ではなく、神に栄光を帰す理由となるのです。その他、彼らを選んだ理由はたくさんあります。考えてみてください。

 イエス行動論要約

イエスは確信を持って、使徒たちを選び、権限を委譲されました。神の栄光を現し、神の御心を行うためです。

 今日の試み

 Nick Vujicicという人を調べてみてください。五体不満足、手と足のない、30代男性クリスチャンです。彼を用いられた神の栄光を噛みしめてください。Youtubeで検索すれば動画が出ます。英語が苦手であっても、彼の話し方、姿勢を見てほしいです。わたしが心底尊敬し、いつもなぐさめを受けている人です。

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2015年1月9日金曜日

【イエス行動論41】 群集に同情する マタイ9:35~38

群衆に同情する マタイ9:35~38

イエスが群衆を深く憐れまれた場面です。














 聖句要点引用

35節、イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。
36節、また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。
37節、そこで、弟子たちに言われた「収穫は多いが、働き手が少ない。
38節、だから収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

 共に分析

 イエスの熱心な伝道、憐れみの心を学びましょう
 また、憐れみを持たせる方法も学びましょう。

 35節、イエスは、人々が来るのを待つのではなく、率先して町や村を回りました。率先して会堂で御国の福音を宣べ伝えました。そして、行き先で出会う数多い病人を御業によっていやしました。非常に行動力のあるお方であることがわかります。自分の地域、自分のホームグラウンドから出て、見知らぬ人々に福音を伝えたのです。この勇気、確信、行動力を学びましょう。イエスは、町々、村々を残らず回られたのです。

 イエスはどのように人々と接したでしょうか。神の御国をどのように伝えたでしょうか。36節、イエスは人々を憐れみ、慈愛を持って接しました。わたしたちは「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」人々を見ると、どのように思うでしょうか。人々の痛み・苦しみに着目するよりも、人々の行い、性格、実績などを評価し、「自業自得」「自己責任」と考えたりしないでしょうか。「あんな人になってはいけないよ」とその人の前で自分の子どもに言っていたりしませんか。イエスは人々の弱さ、苦しみ、悲しみを見られ、憐れまれたのです。
 
 イエスは、弟子たちに、憐れみを持つよう具体的に指示されました。神に「収穫のために働き手を送ってくださるように」祈るということは、人々を救う御使いをもっと増やしてください、もっと送ってくださいということです。この祈りの動機は人々への憐れみであるから、このように祈ると、憐れみの心を持つようになるのです。隣人のために祈りを捧げると、隣人を憐れみ、慈愛を持つようになるのです。

 イエス行動論要約

 イエスは活動的に福音を宣べ伝えられ、憐れみの心を持って人々と接しました。弟子たちにも、その憐れみの心を持ち、強めるよう、具体的な祈りを教えました。

 今日の試み

 日頃、どの程度隣人のために祈っているでしょうか。
 今日の学びを通して、私の祈りがいかに自分中心になっているか気づかされました。自分の信仰、自分の人生、自分の進路などなど、祈りのほとんどが自分のためでありました。
 「我先に」ではなく、「隣人先に」祈りをするなら、どんなに素晴らしいでしょうか。
 隣人を思う心が育まれるでしょう。
 毎日誰かのために祈ることにしました。
 兄弟姉妹も誰かのために祈ってくださいね。

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*個人的な相談、要望などがあれば、serveforgod27〔あっと〕gmail.com までメールを送ってください。
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2015年1月6日火曜日

【イエス行動論40】口の利けない人をいやす マタイ9:32~34

口の利けない人をいやす マタイ9:32~34

イエスが悪霊を追い出す場面です。















 聖句要点引用

32節、悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れられて来た。
33節、悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言った。
34節、しかし、ファリサイ派の人々は「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言った。

 共に分析

 イエスの確信と御業を学び、その受け止め方を学びましょう。

 イエスは病気や苦しみをいやされたので、多くの病人がイエスを探しました。てんかん、出血病、皮膚病、障がいなど、ありとあらゆる病人たちがイエスをたずねました。今回は、悪霊に取りつかれて、口の利けない人がイエスのもとに連れられました。悪霊はイエスに近づきたくありませんから、「連れられた」のです。イエスは現代の医者のように、ある特定の分野に秀でた専門家ではありません。皮膚科の医者は皮膚病の治療に特化します。他の病気は治せません。しかしイエスの御業は、どんな病気をもいやされます。どんな病気、苦しみ、障がいを持った人が来てもいやすことができるという、確信があるのです。

 34節で見て取れるファリサイ派のような受け止め方は、めずらしくなく、よくあることです。大半のファリサイ派の人々はこのようにイエスのいやしを受け止めました。なぜ、間違った受け止め方をしたのか、その原因を知ることはわたしたちにとって非常に重要です。その原因に注意することができるようになるからです。イエスの御言葉の本質は、これまで書いてきたとおり、「第一に神の国と神の義を求める」ことです。これは、神中心の生活、思考、善行を行うということです。多くのファリサイ派の人々はイエスの出現が彼らの名誉や社会的地位を脅かす脅威であると考えました。自分の保身とイエスへのねたみが、彼らの心をかたくなにしたのです。間違った受け止め方をした原因は、彼らの自己中心的な生活、思考、行いにあったのです。

 イエス行動論要約

 イエスは確信と神の御業により、どんな病気、患いをもいやすことができる。人間中心的な生活では、イエスを真心で受け入れることはできない。

 今日の試み

 神中心的に生活するために工夫してください。
 あなたはどのように工夫しますか?
 自分にどのような色メガネ・先入観・固定観念・思い込み・世界観・解釈があるのか、確かめてみるとよいでしょう。
 そして、神様の、主イエスの、聖霊様の、世界観・解釈がどんなものであるか考えることができれば、ばっちりです。

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