2014年10月25日土曜日

【イエス行動論37】 断食についての問答② マタイ9:14~17

断食についての問答② マタイ9:14~17

新しい革袋と古い革袋。
















 聖書要点引用

16節、だれも織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎをあてたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。
17節、新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。

 共に分析

 イエスの例え方と教えの本質を学びましょう。

 布とぶどう酒の例えは、いささか理解しにくい例えかもしれません。率直に言って、現代人のわたしたちにはピンと来ないのです。イエスの例え方は、普遍性を持ち、どの時代の人にも分かりやすいという特徴がありますが、聞き手に合わせた調整(カスタマイズ)をしていることがここでわかります。ユダヤ人が理解しやすいよう、ピンと来るよう、例えたのです。2000年前のユダヤ人は、多くの人が布を用いて服をつくったり、ぶどう酒を飲んでいました。この通り、イエスは「第一に神の国と神の義を求めなさい」などの普遍的な教えとともに、聞き手に応じた例えをしました。

 布とぶどう酒の例えの本質は何でしょうか。布やぶどう酒に特別な意味があるでしょうか。いいえ、そうではなく、例えの背後にある意味、意図している意味を汲み取ることが本質的です。16節と17節は、新しいものを古いものに付けたり、入れたりするとだめになるとあります。そうすると、考えるべきは、新しいものとは何で、古いものとは何かです。

 『断食についての問答』の文脈からでも明らかなように、新しいものとは、イエスです。メシア(救世主)の救い、律法の完成、新しい約束(新約)です。古いものとは、14節に見られる、モーセの十戒、律法主義、古い約束(旧約)です。その意味するところは、旧約的な律法の枠組みではイエスを受け入れることはできないということです。頭でっかちの律法主義者はひからびた革袋のようであり、イエスの教えを頑なに聞こうとせず、新しいぶどう酒を入れることができませんでした。旧来の約束、価値観を改め、まったく新しい人になる(生まれ変わる)ことで、イエスの教えを受け入れなさい、これこそがこの例えの本質ではないでしょうか。

 イエス行動論要約

 イエスは、神の言葉を普遍的に伝えると同時に、聞き手の属性、習慣などに合わせた例えを用いられた。布とぶどう酒を用いた例えの本質は、救世主イエスを信じるためには、古くなった律法、考え方を刷新する必要があることです。

 今日の試み

 現代に生きるわたしたちは、どうでしょう。新しい革袋を持って新しいぶどう酒を入れることができているでしょうか。もし何か問題が生じているならば、それは革袋の方に問題があります。わたしたちは革袋を常に新しいものにする必要があります。そのためには、革袋が古くなる原因、誘惑を断定することです。わたしたちの革袋が古い理由、もしくは古くなる理由を考えてください。


兄弟姉妹のみなさん、一人一人を愛します。
ありのままのあなたを愛します。I love you.
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2014年10月24日金曜日

【イエス行動論36】 断食についての問答① マタイ9:14~17

断食についての問答① マタイ9:14~17

断食の論争に終止符を。














 聖句要点引用

14節、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「わたしたちとファリサイ派の人々は断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。
15節、イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき彼らは断食することになる。」

 共に分析

 イエスの問いへの受け答え方と御言葉の本質を学びましょう。16節、17節は次回に持ち越します。
 14節から分かる通り、ヨハネの弟子やファリサイ派の人々によって、断食をする・しないはとても重要なことでした。「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」という問いは、単に確認したいわけではなく、非を認めさせ、断食を勧める意図があります。
 15節、イエスの受け答えは「今は、断食しない」です。つまり、今断食をしているヨハネの弟子たちやファリサイ派の人々こそ、非を認め、行動を改める必要があると言っています。しかし、どんな言葉でそれを伝えているでしょうか。15節、花婿の例を取りながら、真理を、断食とはそもそもなぜするのかを、説明されました。「あなたは間違っている」「断食するわけないだろう」と言うこともできましたが、敢えて花婿の例えで受け答えされたのです。相手を憐れみ、愛するからこその言葉でしょう。

 では、断食の本質とは何でしょう。
 15節にはっきりとその本質があります。断食は、悲しみと喪失があった時に、するものなのです。花婿とはイエス、救世主メシアです。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか」にある通り、イエスが一緒にいる時は、断食はしないのです。メシアを信じる者にとってイエスは至福の喜びであり、結婚式のようなハッピーイベントなのです。空前のパーティ、カーニバル、宴会です。そのとき「断食します」と言って共に飲み食いせず、喜びを分かち合わない者は、断食するそもそもの理由を、本質を完全に忘れています。
 断食はどういうときにされてきたでしょうか。旧約時代、「断食の日」なるものがあり、贖罪(罪を贖う=罪を赦してもらう)の日に行っていました。つまり、罪の悔い改めとして断食をしていたのです。また、試練や困難に遭ったとき、断食しました。ダビデ王は、サウロ王とヨナタンの死を知ったとき、断食をしています。ただ、はっきりしているのは、聖書には断食しなければならないといった記述はありません。ではなぜ断食するのでしょう。
 思い浮かぶ理由を列挙しましょう。イエスが経験された誘惑だから?絶対療法で身体を元気にするため?苦行を通して神に近づくため?願いを聞き入れてもらうため?霊的に成長するため?
 15節、どんなときに断食をするのか、イエスははっきりと言っています。「花婿が奪い取られる」ときです。イエスが十字架に架けられ、死なれたときに、断食をするのです。イエスの死は、神にどれほどの痛みを与えたでしょうか。イエスの死は、わたしたちにどれほどの痛みを与えたでしょうか。断食とは、耐えがたい悲しみと喪失があったときにするものなのです。
 あなたは、あなたの愛する人、父さん、母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、兄・弟、姉・妹、恋人・妻、親友、師匠、先輩・後輩を失ったとき、どれほどの悲しみと喪失感を覚えるでしょうか。彼らの死を知ったあと、ご飯がのどを通りますか?わたしたちは、この上ない悲しみに包まれると、神に祈ります。後になって見ると、結果としてその間に断食していたことに気づくのです。

 イエス行動論要約

 イエスは愛を持って受け答えられ、真理に基づいて諭されました。断食とは、悲しみと喪失があったときにするものです。

 今日の試み

 「なぜ、あなたは断食する・しないのですか」に答えてください。
 答えるときに、注意してください。人間の思いや考えによらないように。真理でおられる主イエスの言葉をもとに、答えてください。
 以下は、わたしの答えです。
 通常時、断食はしません。イエスの教えにはっきりしている通り、悲しみや喪失がない場合、断食はしないからです。現代においてイエスは既に昇天されており、神の御座におられます。死から復活され、今に至ります。現在は、悲しむよりも、主イエスの臨在をむしろ喜ぶべきではないでしょうか。
 意識的に断食をしたこともありません。「わたしは断食をするんだ」と考え、断食をしたことはありません。わたしは過去に、「そう言えば断食をしていた」という経験があります。主イエスの十字架を描いた映画『パッション』(メル・ギブソン作,2004年)を視聴した夜、食べずにそのまま寝ました。十字架を背負うことの、果てしない喪失、余りのむごさ、悲しみと、わたしたちの罪深さ、申し訳なさに、圧倒されたからです。
 信仰的生活、霊的成長のために、断食をする方もおられるでしょう。悲しみや喪失による断食であるならば、それはよいことです。そうでなければ、イエスの教えに立ち帰るべきです。しかし、わたしたちは「救われた」のですから、今は喜びに溢れるときであることを忘れないでください。花婿は復活し、帰ってきましたよ。

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2014年10月23日木曜日

【イエス行動論35】 マタイを弟子にする マタイ9:9~13

マタイを弟子にする マタイ9:9~13

イエスの、注意深さ、行いの実践、比喩による受け答え、目的意識














 聖句要点引用

9節、イエスは、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
10節、イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスは弟子たちと同席していた。
11節、ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
12節、イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
13節、わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 共に分析

 イエスの注意深さ、行いの実践、比喩による受け答え、目的意識を学びましょう。
 
 道を歩くときにみなさんは何に、どこに注意を払っていますか。せわしく移動する中、一刻も早く目的地へ、とまっしぐらに突き進んでいませんか。9節、イエスは、移動中、マタイを見られました。収税所に座っていたマタイの姿、様子、表情などを注意深く見られたイエスは、「わたしに従いなさい」と言いました。目を凝らし、人を見、その人がどういう人なのか見定め、伝道したのです。

 わたしたちは、善い行いとは何かを知っていますし、隣人に教えたりもします。しかし、実際に実践している時間は皆無、もしくはかなり少ないのではないでしょうか。10節、イエスは善い行いを実践されています。罪を赦し、救いに導くために来られたイエスは、その責務をきちんと全うしています。ともすれば身を置きたくない、徴税人や罪人が集まる場所で、食事を共にし、伝道されました。

 11節のファリサイ派の問いにあなたならどう答えますか?「マタイに誘われたから」「食事あ豪華だから」というような受け答えであるとすれば、イエスの受け答えを大いに見習うべきです。イエスは例えを使って、12節、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である」と答えました。イエスは、真理を理解しやすいよう、また、信仰を持つよう、言葉を選ばれています。

 あなたの人生の目的は何ですか?明確な目的を持っていますか?イエスは明確です。明確かつ揺るぎない確かさがあります。その目的は、13節、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」です。イエスはこの確固たる目的意識に従って行動されます。ファリサイ派の常識、引いてはこの世の常識などのいらぬ心配や不安を覚えることなく、神の道を謙虚に、忍耐しながら歩みました。

 イエス行動論要約

 イエスは、救いを求めている者を注意深く探し、見られます。正しい行いを常に実践されます。真理を伝え、信仰心を強めるために言葉を考えて受け答えされます。はっきりした目的意識をもとに、行動されます。

 今日の試み

 4つの学びがありました。注意深さ、行いの実践、比喩による受け答え、目的意識。今日の試み、主イエスに近づく一歩として、何をされますか。
 お勧めしたいのは、目的意識を確固たるものとすることです。目的意識があって初めて、他の3つのことが実を結ぶようになると思うからです。目的意識なしには、うまく機能しないでしょう。
 わたしたちが生きている理由。生きている目的、とは何ですか?

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2014年10月22日水曜日

【イエス行動論34】 中風の人をいやす マタイ9:1~8

中風の人をいやす マタイ9:1~8

イエスの、人を見る目、人との接し方、人への教え方
















 聖句要点引用

2節、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへの連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。
3節、ところが、律法学者の中に、「この男は神を冒涜している」と思う者がいた。
4節、イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。
5節、『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
6節、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。
7節、その人は起き上がり、家に帰って行った。

 共に分析

 イエスの、人を見る目、人との接し方、人への教え方を学びましょう。

 2節、イエスは人の何を、人をどのように見られるのかが分かります。2節、イエスのもとに中風の人が床に寝かせられたまま現れます。その次の文章に、イエスはその人たちの「信仰を見て」とあります。イエスは信仰をもって人を見られました。わたしたちは、彼らの外見、容姿、地位、能力、性格、経済力や、患者の病状、年齢などをまず気にするのではないでしょうか。イエスは信仰の有る無し、度合いによって、人を見ます。

 何回か読むうちに気づいたのですが、この箇所の中で、イエスの接し方に学ぶ部分がありました。これも2節です。イエスは中風の人の人に「子よ、元気を出しなさい」と言いました。この「子よ」という部分です。イエスは中風の人をただ憐れな病人として接しているのではなく、「神の子」として接しています。わたしはここに感動しました。「子よ」と呼ばれるイエスの愛を感じるからです。イエスとは対照的に、3節を見ると、律法学者たちはイエスを何と呼んでいるでしょうか。「この男は神を冒涜している」にある通り、「男」と呼んでいます。イエスは、中風の人が病人である前に、それ以前に、神の子であることを知っておられ、それを大事にされるのです。律法学者自身も、律法の専門家である以前に、神の子なのです。

 イエスは4~6節で、律法学者の誤った考えを直すために、積極的に教えられています。手強い律法学者を相手に、イエスはどのように教えられたのでしょうか。4節、イエスははっきりと律法学者の考えが「悪い」と間違っていることを伝えています。誤っていること、間違っていることをうやむやにせず、すばり指摘しています。その上で、5節、問いかけをしています。この問いかけは、前後の聖句を読めば分かる通り、律法学者の常識を乗り越え、逆転させる御業へとつなぐ役割を持っています。律法学者の常識とは、普段の仕事として「あなたの罪は赦される」と罪人に言っているので、「起きて歩け」というのが易しくない、つまり難しいとの考えです。わたしたち自身の常識で考えても、起きて歩け」の方が難しいのではないでしょうか。イエスを信じるクリスチャンでさえ、持病や障害が恵みによって治るとは考えない、祈らない人がいるのではないでしょうか。入院している家族・友達・知人の前で、もしくは外でその人のために祈るかもしれませんが、「起きて歩け」とは言わないでしょう。

 イエスは「起きて歩け」と言われました。そして、最も重要なのが、「起きて歩け」と言う前の部分です。6節、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」です。イエスは自分の知識や話術で教えるよりも、神に与えられた権威によって教えられるのです。この権威ほど、教えに効果のあるものはないでしょう。中風の人が、目の前で実際に立ち上がって帰って行くのですから、当然です。この通り、イエスは、人に教えられるとき、権威によって、神に御業によって教えられました。

 イエス行動論要約

 イエスは、人を信仰によって見られます。イエスは、人を何よりもまず神の子として接し、隣人を「子」と呼ばれます。イエスは、神による権威を頼りに、教えられます。

 今日の試み

 共に分析しました、三つの学びのうち、すぐ試みることができるのは、隣人を神の子として接することではないでしょうか。隣人を、神の「子」として考え、接するのです。
 まずは、仲の良い人、一緒に居て落ち着く人から、そのように接してみましょう。「子よ」と言うのはないと思いますが、相手を神の子であるとするだけで、おのずと接し方、つまり言葉や態度が変わってきます。
 今日、誰か一人、神の子として見てください。わたしもやります。そのように隣人を見た瞬間は、主イエスに似ている、と言ってもいいでしょう。
 
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2014年10月21日火曜日

【イエス行動論33】 悪霊に取りつかれたガダラの人をいやす マタイ8:28~34

悪霊に取りつかれたガダラの人をいやす マタイ8:28~34

堅くて丈夫な砦であるイエス。
















 聖句要点引用

28節、イエスがガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやってきた。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。
29節、突然、彼らは叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」
31節、「我々を追い出すなら、あの豚の中にやってくれ」と願った。
32節、イエスが「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。

 共に分析

 イエスの優位性と敵への憐れみの愛を学びましょう。
 
 悪魔の力、悪霊の力はとてつもないものがあります。悪の誘惑の強さの証拠はこの世にたくさんあり、わたしたちも、また多く経験したはずです。イエスと悪霊、ひいては悪との力関係、上下関係は歴然です。29節に明らかなように、イエスが上、悪霊が下です。31節の「願った」も家エスの優位性を教えてくれます。神と神の子は、悪魔と悪霊より、強い。弱くも、互角でもなく、圧倒的に強いのです。悪霊にとりつかれ、大の大人が狂暴になっていても、毅然として態度をとれるのは、この絶対的な優位性によります。

 本来ならば、最大の敵である、悪魔や悪霊に交渉の余地も、妥協の余地もありません。神は、悪の懇願などものともせず、圧倒的な審判をもって息の根を止められますし、然るべきでしょう。しかし、32節、イエスの悪霊に対する行動はそのような敵意や憎悪を持った者ではありません。イエスは悪霊の願いに応じる形で「行け」と命じられました。これは、悪霊に力があったからでも、義があったわけでもありません。イエスは悪を憐れまれ、慈愛を持って応対されたのです。まさに、「敵を愛せよ」の実践です。

 イエス行動論要約

 イエスは最大の敵である悪魔や悪霊に対して、圧倒的な優位の立場にあり、毅然とした態度で接しました。憎き悪を、その慈愛ゆえに、憐れまれました。

 今日の試み

 誘惑や試練に負けそう…と思われることはありますか。わたしたちは神の子です。わたしたち兄弟姉妹はみな、神の子であり、悪魔や悪霊の誘惑・試みに打ち勝つことができます。なぜなら、神は絶大かつ絶対優位であるからです。何がわたしたちに歯向かうことができましょう。
 そうは言っても、わたしたちは信仰の薄い、弱く罪深い者です。自分自身の思い、悩みに縛られます。
 神を第一に求めてください。問題が起きたら、誘惑されたら、負けそうだったら、倒れそうだったら、虚しくなったら、まず第一に神を求めてください。神様は、主イエスは堅くて丈夫な砦です。この確信と感謝がなければ、敵を愛することなどできません。

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2014年10月20日月曜日

【イエス行動論32】 嵐を静める マタイ8:23~27

嵐を静める マタイ8:23~27

薄い信仰から濃い信仰へ。














 聖句要点引用

23節、イエスが舟に乗りこまれると、弟子たちも従った。
24節、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。
25節、弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです。」と言った。
26節、「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかりになった。

 共に分析

 イエスの信仰の確信と体現、信仰を見る目と育て方を学びましょう。
 今回の聖句箇所の本質も「第一に神の国と神の義を求める」ことです。

 弟子たちはわたしたちの写し鏡です。投影です。神を信じ、イエスに従っていると告白したにもかかわらず、いざ激しい嵐に遭うと、怖れます。弟子たちは、日々イエスの奇跡を直に見聞きし、イエスの教えもすべて聞いているはずです。それでもなお、おそれました。

 イエスの信仰は弟子たちやわたしたちのものと完全に違うものであることがわかります。26節、「なぜ怖がるのか」と、信仰への確信があるのです。そして、口先だけではなく、確信のある行動によって、信仰を体現しています。弟子たちみたいに慌てず、そわそわしませんでした。この世の光として、神の御心を完全に行う模範なのです。

 自分の信仰、兄弟姉妹の信仰を強めるためには、信仰を見る目、洞察力が必要です。イエスは、弟子たちの信仰心をつぶさに洞察し、信仰が「薄い」と判断しました。ではどのような信仰が「薄く」、また、「濃い」のでしょう。26節、信仰の濃度を見る上で、恐怖に対してどう反応しているかは、重要な判断材料になります。

 神が全知全能であり、天地万物をお創りになり、あらゆることがらが神の御計画に基づいて行われている。イエスは今も生きておられ、わたしたちの罪を十字架によって赦され、その恵みはすべての人間に行き渡っている。聖霊はいつもわたしたちの内にあり、神とイエスを結びつけ、信仰と知恵を与えてくれる。このことを信じるならば、つまり、信仰を持つならば、率直に言ってこわいものなし、となるはずです。このように、恐怖をどのように受け止めているかは、信仰を判断する上で、重要です。

 イエスは「信仰の薄い者たちよ」と弟子に言いました。その真意はなんでしょうか。日常の常識で考えると、この状況で「信仰の薄い者たちよ」と言うことはありえないです。わたしたちならば、「なぜ嵐のことを前もって調べなかったんだ」「はやくいかりを下ろせ」「事務所に連絡を入れろ」と言うのではないでしょうか。イエスは、あらゆる試み、艱難、苦悩を信仰を教える機会とします。なにごとも、信仰が最も重要なことであることを教えています。

 わたしたちは信仰うんぬんよりも、目の前の事態を処理することに注力しますが、それはイエス的ではありません。信仰によって試みに耐え、勝ち抜く経験を繰り返し共にすることで、弟子たちの信仰が強められるようにしました。

 イエス行動論要約

イエスは完全な信仰を持ち、その通りに完全に体現される。信仰を重要視し、信仰を見る洞察力が非常に高い。弟子たちの信仰を強めるために、行動された。

 今日の試み

 兄弟姉妹のみなさん、あなたの信仰は「濃い」ですか?恐れに直面したとき、どうしていますか?
 薄い信仰を持った弟子たちは、嵐を前におそれをなし、あたふたしました。しかし、25節、「主よ、助けてください。おぼれそうです。」と主を求めました。問題が起きたときに、試練に合うとき、自分の能力や経験など、人間中心的に解決するのは神の子ではないでしょう。まず神を求め、神にひれ伏すのです。その後に、神から与えられたタラント(能力)を用いるのです。

 今抱えている、あらゆる恐怖・試練・艱難・悩みをもう一度考え直してみましょう。その時、これだけは忘れないでください。神はあなたを愛しておられ、心にとめておられます。また、微力ながらも、わたしもあなたを愛します。例え見ず知らずの方でも、神の子であり、兄弟姉妹であるから、愛せます。

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2014年10月19日日曜日

【イエス行動論31】 弟子の覚悟 マタイ8:18~22

弟子の覚悟 マタイ8:18~22

イエスに「従う」とはどういうことか。















 聖句要点引用

19節、律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります。」と言った。
20節、イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
21節、弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください。」と言った。
22節、イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」

 共に分析

 イエスの用いられる比喩とその動機を学びましょう。
 この聖句の本質は「第一に神の国と神の義を求める」ことです。
 はっきり言いますが、この聖句箇所はイエスに従うとはどういうことか、非常に厳しく語られたものです。非常に厳しい。なので、まだ信仰が強くない兄弟姉妹はつまずきを覚えるかもしれないことを、前もって言っておきます。
 イエスは比喩やたとえを良く用います。20節、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」も比喩です。慈愛と憐れみに満ちたイエスなら、19節に見られる律法学者の一大決心と悔い改めをほめられたと思うのが普通ではないでしょうか。イエスの迫害・非難する律法学者の他に、イエスに真理を見いだし、救いを求めた律法学者もいました。律法における生き方からイエスにおける生き方へと転換したのです。
 律法学者の告白に対するイエスの受け答えは厳しいものです。20節、イエスの弟子として、従うことを望む者は、イエスと同じ「枕する所」のない生き方を覚悟しなさいと言いました。「枕する所」は寝る所、家、安心できる所です。イエスとわたしたち神の子の「枕する所」とは神の御国です。そのような安心できる所が、この世にはないと言ったのです。つまり、この世に置いて、「枕する所」がないということは、この世のあらゆる煩いに優先して、神の国と神の義を求めることなのです。イエスはこのように、厳しく応答されました。
 22節、これもまた、非常に厳しい言葉です。親を敬うことが律法となっているユダヤ教徒の常識を完全に打ち砕くものです。わたしたちの常識をも打ち砕くものでしょう。親が亡くなったときに、葬り弔いをするのは子の義務であり自然な心ではないでしょうか。しかし、イエスは、22節、「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」と言われ間ました。
 ではなぜ、イエスはこれほどまでに厳しい言葉を律法学者に、弟子にしたのでしょうか。律法学者の悔い改めを受け入れず、弟子に葬りを許可せず、意気消沈させるためでしょうか。イエスは慈愛と憐れみの方です。イエスは誰よりも、わたしたちが救われることを喜ばれます。真に救われてほしいがために、本当のことを言ったのです。良薬は口に苦しです。イエスは真理を語ります。それは神の御心であり、神の御計画です。律法学者は、イエスに従うことの重みを、その生き方や犠牲などを、少し軽視したかもしれません。弟子は、神の子である前に、肉の子を優先したのかもしれません。ある程度習熟し、真理を受け取ることのできる兄弟姉妹には、このように真理を飾らず、そのまま伝えることで、真の救いをすすめられました。

 イエス行動論要約

 イエスに従うことの重みを「枕する所」のない比喩で説明されました。第一に神の国と神の義を求めるよう、厳しく言われました。それは、慈愛と憐れみによる、本物の真理です。

 今日の試み

 今回共に分析しました聖句箇所は、前述のとおり、厳しいものです。裏を返せば、わたしたしの常識や日々の振舞が、イエスのと比べ、大きいへだたりがあると言えます。
 わたしたちは、兄弟姉妹を愛し、なぐさめ、ねぎらいます。「クリスチャンとしてイエスの道を歩くのはものすごい覚悟が必要だ。」まだ信仰的に強くない兄弟姉妹にはつまずきとなります。信仰的に強められた兄弟姉妹には悔い改めと決心を促します。わたしたちは、賢く、兄弟姉妹の信仰に応じて、愛を持って真理を伝える必要があるのです。「信じると言うだけで救われる」「信じると祈れば苦しみは起きない」など、部分的な真理を含む言葉は、信仰が強められることによって徐々に何が本質か否か分かるようになります。
 相手を考慮したはげましの言葉も、改めさせる厳しい言葉も、深い慈愛と憐れみから来ることを忘れないでください。第一に神の国と神の義を求めましょう。

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2014年10月18日土曜日

【イエス行動論30】 多くの病人をいやす マタイ8:14~17

多くの病人をいやす マタイ8:14~17

イエスの「正しさ」


















 聖句要点引用

14節、イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。
15節、イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がって、イエスをもてなした。
16節、夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。
17節、それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」

 共に分析

 イエスの確信、正しさ、使命の本質を学びましょう。
 本質は「第一に神の国と神の義を求める」ことです。
 15節、「その手に触れられる」とあります。イエスはパウロのしゅうとめの手に触れました。この単純な動作の中にも、大変な信仰が認められるのではないでしょうか。わたしたちも病院や家にお見舞いすることがあります。お土産を手に、ねぎらいとなぐさめを目的に向かいます。しかし、その手に触れて、病気を治すことなど、考えたことも、行ったことなどないと思います。明日手術が行われるとする人に、その場で治ると信じて触れることはないと思います。まして、16節、言葉でいやしを行うことなど、滅多にありません。イエスの清い信仰が見られます。
 イエスの信仰は、行動はなぜ正しいのでしょうか。なぜ、義なのですか。17節、預言に基づいた信仰、行いであるからです。これまで、正しさや義とは、神の御心に適うことであることを共に分析してきました。預言とは、神の御心、神の御計画の表れです。神から「預かった」「言葉」であるから、預言なのです。そして、イエスは神の御心を「完璧」に適うよう行いをされました。裏を返せば、神以外の何かに頼ったことが一時もないと言えます。
 イエスの使命の本質は「十字架による救い」です。十字架で救いを完成させるまでは、教えやいやしなどで救われます。正直に言って、大方の人は、14節、汗ばんだ年寄りの手など触りたくなく、16節、悪霊に取りつかれた狂暴・危険な人と関わりたくないでしょう。しかし、イエスはその人々こそ救われる必要があると神中心的に考え、使命の任務を遂行しました。「正しい」こととは、世の常識と異なる場合が大いにあるのです。

 イエス行動論要約

 イエスの信仰と行いは完全です。完璧に、神の御心に適っているからです。神の御言葉の表れである預言を成就する使命を基に、完璧に任務を遂行されます。

 今日の試み

 要約を見て分かると思います。救いの道へ進むためには、神の御心に適う信仰と行いが必要ということです。イエスへの預言があったように、わたしたちへの預言があったかどうか学ぶ理由がここにあるのです。聖書を読み理由も神の御心に適うためです。
 先日、大学構内で、電車やバスを利用するときに使うSuica(ICカード)を失くしました。1000円ごとしかチャージしませんが、学生にとっては痛手です。次の日に、事務室の窓口に向かいました。届けられていたので、取り戻すことができました。
 わたしが喜んだのは、Suicaが戻ったことより、自分の信仰が強められたことです。わたしのSuicaは無記名の物で、誰かが拾ったとしても、届けないだろうと考えました。しかし、神に、届けられていると信じます、すべては神の御計画どおりにと祈りました。窓口に行く前からすでにSuicaは手元にあるかのように考えました。はたして、ありました。
 神ならばしてくださるだろうと信じ、すでに与えられたと考える、これが、昨日の記事でも書きました、信仰ではないでしょうか。もちろん、神の御計画によってです。Suicaがなかったとしたら、それが神の御計画であるとはっきり分かるのです。
 このように小さなことでもよいので、毎日神の御心に適う信仰を求めてみましょう。
 
兄弟姉妹のみなさん、一人一人を愛します。
ありのままのあなたを愛します。I love you.
神の栄光をほめたたえます。ハレルヤ!^0^
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2014年10月17日金曜日

【イエス行動論29】 百人隊長の僕をいやす マタイ8:5~13

百人隊長の僕をいやす マタイ8:5~13

主イエスの「救い」














 聖句要点引用

5節、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、
6節、「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。
7節、そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。
8節、すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。
9節、わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
10節、イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。
11節、言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。
12節、だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
13節、そして百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。

 共に分析

 イエスにより神中心的な行い、喜びの分かち合いと預言を学びましょう。
「百人隊長の僕をいやす」の本質は「第一に神の国と神の義を求める」ことです。
 イエス行動論は文字通りイエスの行動に焦点を当てます。しかし、イエスを感心させて百人隊長の信仰が非常に重要なので、少し言及します。先に結論から言うと、百人隊長の信仰には二つの特筆すべき特徴があります。一つ目は、へりくだり、二つ目が、確信です。当時イスラエルはローマ帝国に支配されていましたので、ローマの百人隊長であったと考えるのが定説となっています。イスラエルの民からすれば、権威のある支配者であり、異邦人であったのです。イエスに「懇願」する行為自体が、百人隊長に相当なへりくだりを要することでありました。支配者である己のプライド、民族的対立などを捨て去って、イエスに寄り頼みました。
 二つ目は、8節に見られる、信仰の確信です。言葉一つで、患部に触らずとも病気がいやされると確信しています。イエスが喜ばれたこの信仰を見事に説明している御言葉がありますので、紹介します。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」(ヘブライ人への手紙11:1~2)百人隊長は、僕が必ずいやされることを確信し、既にいやされたものと確信しました。イエスが感心されたこの信仰はすばらしいものであり、わたしたちの道標となります。
 イエスは、百人隊長の願いを受けて、7節「わたしが行って、いやしてあげよう」と言います。これは、時間を持て余していた、ローマの百人隊長が珍しかったなどのような理由から言ったものではありません。神の御心に適うよう、神の御計画に基づいて、正しいことを行うことが本質です。神の御心によるイエスの使命は「救い」です。神によって与えられた使命を忠実に、首尾一貫として行う姿が見られます。
 10節、イエスの「救い」の本質は罪の贖いです。その意味で考えると、真に救われたのは百人隊長の僕というより、百人隊長自身であると思います。自分自身の罪深さと神の御業を確信しているからです。10節で、従っていた人にその信仰について教えることで、弟子たちや群集が自分自身の罪深さと神の御業を確信することができるよう、「救い」の働きかけをされているのです。イエスは、百人隊長、その僕、従っている人々、全員に「救い」を行っています。
 11節、イエスは異邦人の救いを、12節、イスラエル民の裁きを、預言されています。神の御心を熟知し、真理を教えています。真理を正しく理解することが、信仰の土台となり、糧となるからです。信仰の種まき、成長を支えるのは神の御言葉であります。
 13節、イエスは懇願に答えました。その言葉の選び方がすばらしいです。「あなたが信じたとおりになるように」です。イエスはいやしをする前に、必ず人の信仰を見られます。信仰が最優先されるからです。

 イエス行動論要約

 百人隊長の信仰には、へりくだりと確信がありました。イエスは神の御心に適うよう行動されます。イエスの「救い」という使命を果たすために、いやしを与え、人々に信仰を教え、預言されました。

 今日の試み

 10節「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」ことから明らかなことに、ほとんどの人は、信仰が薄い、あるいはまったくない者です。百人隊長の確信、イエスの確信を前に、自分自身の罪深さを自覚し、へりくだることが重要です。真に、へりくだることで、イエスの十字架を心から感謝することができ、確信することができます。
 兄弟姉妹のみなさん、あなたは罪人ですか?
 
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2014年10月16日木曜日

【イエス行動論28】 重い皮膚病を患っている人をいやす マタイ8:1~4

重い皮膚病を患っている人をいやす マタイ8:1~4

清さ、汚れとは何か教えられます。
















 聖句要点引用

2節、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
3節、イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい、清くなれ」と言われると、重い皮膚病は清くなった。
4節、イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」

 共に分析

 イエスの行動の本質を学びましょう。
 本質は「第一に神の国と神の義を求める」イエスの姿です。
 山上の垂訓は終わりました。イエスは多くの群集とともに山を下ります。すると、一人の重い皮膚病の患者がイエスの前でひれ伏し、いやし求めました。2節にある通りです。実は、単に深々とお願いしたというようなものではなく、当時としてはそれこそ決死の覚悟だったと考えられます。参考として、少し当時の時代背景を説明します。残念ながら、今でも重い皮膚病の方を「汚れた」者として隔離する、もしくは避ける風習や慣習が残っています。当時、モーセの十戒に代表される律法を重んじていたイスラエルでは、皮膚病は「神の天罰」「神に打たれた者」と考えられていました。患者は、いわゆる健常者が近くを通るとき、自ら「汚れた者です」と相手に注意をする義務がありました。健常者が汚れないためです。社会から完全に隔離され、人々の交わることが禁じられていたのです。重度の皮膚病を患っている方は、文字通り「社会的に死んだ者」でありました。
 2節に登場する患者は決死の覚悟を持って、そして一縷の希望を持って、イエスに寄り頼みました。その切実さが想像できます。そもそも、人々に近づくこと自体禁じられていましたから、懲罰も覚悟の上です。このような、自分をなげうって、救いを求める人に、イエスはどう対応されたのでしょうか。
 3節、イエスはその人に触れました。触れたのです。予想ですが、誰かに触れられること自体、もし皮膚病が生まれつきであったならば、なかったはずです。「汚れた」存在として絶望的なまでに社会から疎外された患者が人から触れられるのは考えにくいからです。そして「よろしい、清くなれ」と言われました。患者の言葉を傾聴し、その信仰と経緯を見て、清められました。
 そして4節、イエスは口止めをします。いやしを行ったのち、この口止めはたびたび現れます。なぜ、口止めをする必要があるのでしょう。神の御業を喜び、賛美し、伝道に役立てたらよいのではないでしょうか。疑問が生じるときには、本質を考えましょう。イエスの本質は、「神の国と神の義を求める」ことであります。具体的には、十字架によって神の御心に適うことです。この本質から導き出される解にはどんなものがあるでしょう。わたしの知る限り、イエス自身がなぜ口止めされるのかを説明された箇所は聖書にありません。したがって、わたしたちが考える必要があります。説得力を持つ意見としては、まだ十字架に架かる時期ではない中、イエスの名声が余りに広まると、ユダヤの律法学者などがイエスを民衆の扇動者と疑い、危険人物として制裁や妨害を加えるからです。実際、イエスは大会堂では宣教することができなくなり、村・山・川付近で教えるようになります。

 イエス行動論要約

 イエスは、皮膚病を患う人に手を出して触れた。その人の信仰と経緯を見、いやされた。神の御心に集中するために、口止めをされた。

 今日の試み

 わたしは生まれながら軽度のアトピー(かゆみが生じる皮膚病)を持っています。軽度とはいえ、無性にかゆく、掻く動作が繰り返されることで、無意識的に掻く癖ができていました。例えば、朝起きてみると寝ている間に掻いた痕跡があるなど、ままありました。なので、重度の皮膚病となると、恐れ入ります。
 アトピーを治すために、色々な病院に行き、色々な医者に会いました。その中で、とても印象に残っているのが、わたしのアトピーの部分にご自分の手で薬を塗ってくださった医者です。わたしは、アトピーの部分を汚れた部分と考え、人目から隠していました。特に小学生・中学生の時代はそうでした。自分でも見るのがいやな皮膚の部分を、医者が触れてくれたときに、感動しました。イエスに触れられた方はどれほどの感動だったでしょう。
 何が清く、何が汚れか。兄弟姉妹のみなさんと共に考えたいです。

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2014年10月15日水曜日

【イエス行動論27】 家と土台 マタイ7:24~29

家と土台 マタイ7:24~29

絶対的な安心・安全・安定とは何か教えられます。


















 聖句要点引用

24節、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。
25節、雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。
26節、わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。
27節、雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。

 共に分析

 イエスの御言葉の本質と絶対的な安心・安全・安定を学びましょう。
 本質は「第一に神の国と神の義を求めなさい」です。絶対的な安心・安全・安定は「神の御心に適うよう生きる」ことです。
 「家と土台」は山上の垂訓の最後の御言葉です。これまでの御言葉を終える上で、そのすべえてを聞いて行いなさいと、釘を打っています。
 さて、わたしたちはどんな土台を基に生きているでしょうか。土台、根本、基礎、本質、核心は強固でしょうか。日本全体に目を向けると、長らく経済的にも社会的にも停滞した「失われた20年」から未だ抜け出した実感はありません。バブル崩壊によってもたらされたこの艱難は、現代を「不確実な時代」「不安定な時代」と特徴付けています。そして、そのような環境にいるからこそ、現代人は「確実志向」「安定志向」となります。大学での親友や、大学内外の学友の中でも安定志向のため、公務員を目指す人も多くなっています。
 そこで本質的な問いは、何が確実で安定なのかです。状況によって、場合によって、変わるもの・色あせるものは確実でも安定でもないでしょう。公務員は国が雇用主のため、解雇される心配はないかもしれませんが、それ自体前例がないだけであり得ますし、解雇されなくとも、国の動向によって待遇(給与・業務内容)変わります。
 では何が、絶対的な安全でしょうか。わたしたち神の子は、「神」と異口同音に答えます。「絶対性」は神が持つ特徴の中でも特筆すべきものです。絶対性とは、時と場合によって変わることのないものです。想像できるどんな状況、どんな境遇、どんな場合であったとしても、一定している、一貫しているのが、絶対性なのです。
 イエスは、その絶対的な安心・安全・安定をわたしたしが授かることができるように、具体的にどうすればよいか教えています。24節、御言葉を聞き、行うことです。そうする人を「岩の上に自分の家を建てた賢い人」と例えています。その結果、25節、自然災害から人生のあらゆる試練・艱難が襲ってきても、倒れず、持ちこたえます。岩(絶対性の比喩)を土台にしたからです。
 御言葉を聞くが、行わない人は「砂の上に家を建てた愚かな人」と例えています。自然災害や苦しみに耐えられず、倒れ、その倒れ方がひどいです。砂とは、「神以外」の土台と言えます。賢い人が安定志向となった場合、組織や国家(これらは移り変わる)ではなく、神に寄り頼むのです。

 イエス行動論要約

 現代の主な特徴は、不確実、不安定であり、現代人は何らかの形で確実なもの、安定なものを求めている。まことの、絶対的な安心・安全・安定は神であり、神の御言葉を聞き、行うことでそれらを恵みとして授かることができます。

 今日の試み

 頑丈で安定した土台。家については特に言及していません。段ボール箱でも、アパートでも、一軒家でも、お城でも関係ありません。何を土台としているか、が本質です。
 一つ、私自身、よく陥る注意を。神の御言葉を聞き、行うのですが、少し注意をそらすと、人間中心的に考えるようになります。つまり、これだけちゃんと聞き、これだけ良い行いをしたのだから、当然のように神の祝福を期待することです。イエスははっきりと教えられます。わたしたち罪深き人間は、自分の能力・努力などでも天国に入ることは「できず」、神が慈愛によって、「義とされる」と。傲慢に陥らず、謙虚に、そして喜んで神の御言葉を聞き、行いましょう。
 兄弟姉妹の日々との活躍と輝きをお祈りします。まずは、心を開いて神の御言葉を本当の意味で「聞く」ことから始めてもよいかもしれません。今日何をされるにしても、「第一に神の国と神の義を求める」ことを心に留めてください。

ブログ訪問、ありがとうございました。
神の栄光をほめたたえます。ハレルヤ!^0^
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