2015年1月2日金曜日

(最重要) 確信ある信仰を得るには

(最重要) 確信ある信仰を得るには 


 愛する兄弟たちへ。11月9日に投稿する予定でしたが、大変遅くなりました。実は、「確信ある信仰を得るには」について神に祈り、聖書を読み、兄弟姉妹と話すうちに、そもそも「救い」とは何だったのかについて改めて考えていました。
 どうすれば、確信ある信仰を得るのか、だけではなく、そもそも「救い」とは何で、なぜ信仰が重要なのかを合わせて、何度も書き直しました。文章の長さはブログ記事というよりも本の「はじめに」、序章ぐらいの量です。時間に余裕があるときにまとめて読んでください。30分は優にかかります。
 少し筆者(タイプ者が適切ですね)のことをお話します。私は大学2年生で、今年満二十歳です。「確信ある信仰を得るには」という仰々しい記事を書きましたが、当の本人は尻の青い弱冠者で、まだまだ発展途上の者です。クリスチャンの家庭に生まれ、教会はこの方20年間毎週通いました。単純計算で1040回(20年x52週)教会に行っていることになります。大学1年生のころ、交通事故をきっかけに確信を得て、夏休みに初めて聖書を最初から最後まで、旧約と新約を通読しました。聖書ノートには新たに知ったことと疑問点をメモしました。聖書の手引きや聖書に関して書いてある書籍は一通り目を通しています。神の祝福のおかげで、聖書のことならある程度話せるようになりました。
 20歳の若造ですが、これまで私に与えられた知恵を総動員して、書きました。全ての内容は新約聖書(新約が旧約を完成させたからです)の御言葉をもとに書いています。後述しますが、聖書以外に真理を示すものはないからです。また、極力神様もしくは主イエスご自身が語られた御言葉を基盤にしました。
 もう、大人ですし、それくらいはできます。
 主観による脚色、解釈があれば、批判してください。即刻確認と改善に徹します。

 このブログの最大の目的と動機は、自分自身の救いと兄弟姉妹の救いです。
 以下、本文です。兄弟姉妹に救いが訪れるよう、切に祈ります。アーメン。

  愛する兄弟姉妹へ。これを読んでいるあなたへ。

 与えられた知恵をお分けします。
 兄弟姉妹一人一人の救いを切に願い、愛を持って一生懸命、書き記しました。
 祈りを込めた、文章です。
 神の御計画によって、御業が行われますように。アーメン。
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 この世において、つまり、人生において、
 わたしたちの最大の成功は、大きな者として神の御国に入ることです。
 わたしたちの最悪の失敗は、地獄に堕ちることです。

 ではどうすれば大きな者として天国に入ることができるのでしょうか。
 正確に言い換えるならば、どうすれば天国に入ることが“赦される”のでしょうか。

 この問題に答えるべく、この記事では「救い」についてお話しします。
 改めて、救いの本質を知り、この世の限界について知り、確信を得る方法を知ることになります。
 これらは、兄弟姉妹のみなさまがすでによく知っておられることですから、考えの整理になるでしょう。
 繰り返しますが、記事の内容はすべて聖書の御言葉をもとに、書いています。

 問題は、「どうすれば大きな者として天国に入ることができるのでしょうか。」でした。
結論から行きましょう。


 結論:確信を持って、神の御心を行うことです。(後述しますが、「行う」とは行い以上の広義の意味です)

 
 この一言に聖書のすべてが集約されます。
 主イエスご本人が教えられた真理であり、唯一の救いの方法です。

 この結論を聞き、そのようなことはすでに意識している、求めているとおっしゃられるかもしれません。
しかし、

 

 現実:ほとんどのクリスチャン(自称)は天国に入ることができないでしょう。

 悲しいことに、ほとんどのクリスチャン(自称)は天国に入ることができないでしょう。地獄行きです。
 
 なぜ、そう言えるのか? 三つ、聖書からその根拠を示します。

 1. 「しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」(マタイ7:14)
 
 はっきり言いますが、命に通じる門は、わたしたちが考えるより、はるかに狭く、細いのです。
 
 2. 「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」(マタイ5:20)

 律法学者やファリサイ派の義よりもまさる義を“赦され”、守り抜き、育てる人は極少数でしょう。

 3. 「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」(マタイ7:21~23)

 大勢のクリスチャン(自称)、天国に入れると信じ切っている人達が、拒絶され、地獄に行くことが、すでに主イエスによってはっきりと預言されています。恐ろしい預言です。
 
 聖書の御言葉と、この世における現在のクリスチャン(自称)の実態を見れば、大勢が救われないことは明らかです。「ほとんどのクリスチャン(自称)は天国に入ることができない」という指摘は、決して根拠のない暴言・妄言ではないのです。主イエスの御言葉に基づいています。

 
 クリスチャンの後に自称と付けたのは、彼らはクリスチャンではないからです。クリスチャンとは、確信を持って神の御心を行う者であり、神の御心を行っていないなら、その人はクリスチャンではありません。親がクリスチャン・毎週教会に行っている・洗礼を受けたなど、環境や習慣などがクリスチャンを規定するのでなく、神の御心を行っているかどうかの有無がクリスチャンを規定するのです。御心を行っていないのに、クリスチャンであると自称する者たちは有害であり、当然ながら上記の聖句にある通り、救われません。 

 繰り返しますが、わたしはこれを読んでいるあなたと自分自身の救いのために、愛を持って一生懸命書いています。あなたが救われるために、受け入れがたい真理も示さなければなりません。ですが、神の確信を持つ者として、神の御計画によってあなたに神の御業が働かれることを確信しています。

 主イエスの預言にある通り、少なくない自称クリスチャン達(ノンクリスチャンは目も当てられません)が天国に入れず、地獄に行くことを、まず認めてください。主イエスの預言は必ず成就します。この厳しく、恐ろしく、悲しい真理を受け入れてください。「主よ、主よ」と唱える集団の中にあなたもいるかもしれません。わたしも、事故を経験する前は、その中にいました。そして、気をつけなければ、いつ戻ってしまうか分かりません。

 では、なぜ彼ら・彼女らは救いにあずからないのでしょうか。彼ら・彼女らの言い分を聞けば、天国に入るべきと考えるのが自然です。御名によって預言し、悪霊を追い出し、奇跡を行ったと言っています。御名によって行ったという、立派な主張です。これ以上説得力のある主張はないでしょう。あなたも主イエスの前でそう言うかもしれません。

 最大の問題は、天の父の御心を行っていない、ことです。

 マタイ7:21、主イエスの御言葉です。「わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。
 あれ?おかしくないですか?大勢のクリスチャンは御名によって色々行ったと主張しています。
 ここで分かるのは、彼ら・彼女らの考える「御名によって」は、天の父の御心とは一致していないという事実です。
 「実は、天の父の御心を行っていない」のです。この問題を掘り下げると、

 真の問題は、天の父の御心を、本質を、勘違い・無視・悪用している、と言えるでしょう。

 大勢のクリスチャン(自称)は本質を勘違いし、見失っているのです。もしくは、「御名によって」と言いながら、神の権威を利用・悪用しているケースもあります。本質を神と共に考え抜くことなく、外の情報をそのまま鵜呑みにしていることに危機感がありません。間違っているかもしれないという自覚がないのです。今の世の中の現実を見ると、無理もないことです。何が本質か分からないよう、非常に混乱し、倒錯した、複雑怪奇な社会になっています。真理を表す・説明する御言葉や考え方の種々雑多さに異論はないでしょう。

一年に52週あります。毎週教会で説教がありますから、一年に52回もの説教があることになります。
 基本的に、説教は毎回違う御言葉・聖書箇所を教えます。
 日本聖書協会が発行している新共同訳聖書は旧約・新約を合わせて、全部で1982ページ(1502+480)あります。
 キリスト教には教派があり、大別して東方教会、西方教会があります。さらに大別して、東方教会は正教会と東方諸教会、西方教会はカトリックとプロテスタントに分かれています。それぞれが、それぞれの主張を持っています。
 キリスト教「だけ」を見ても、このように膨大な考え方と情報とが混迷を極めています。
他の宗教をも含めると、何が何だか分からなくなります。

 これでは、唯一でおられる神、天の父の御心、つまり人生の本質を見失ってしまいます。
 一体何が、どれが、真理なのでしょう。一体全体、救いの道はどこにあるのか。

 その答えを、自分自身や友人や知り合い、専門家など、人間に求めてはいけません。

 「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。」(コリントⅠ1:21)

 この世の知恵では神を捉えることができません。この世の知恵の限界を認めてください。この世の知恵は、むしろ、神について知らないことを知ること、神の御業を明らかにしていくこと、神の御業を行うことに意味があります。知恵が豊かになるほど、いかに無知であるかわかるものです。この世の知恵では、真理は分かりえない、真理に到達できないことを、受け入れてください。
 わたしは大学生で、大学で学問を勉強している者ですが、学問の限界を受け入れています。神学、科学、経済学、法学、生物学を究めたところで、神の御心を、全宇宙の摂理を完全に把握するには遠く及ばないこと、学問的知識を持って思い通りにこの世をコントロールすることなどできないことを、謙虚に認めることです。真の学者は己のものさし(専門知識)の限界と弱点を承知しています。もう少しだけ、この点について強調するならば、最近の高度な学問は「不確実性」というものを取り入れています。学問によって、「不確実性」を「カオス」や「複雑系」など別の名称で呼びますが、要は、「分からない」ことを謙虚に認め、それらに対応すべく新たな理論を構築しようというものです。学問が、己の限界を知り、分からないことに対して何ができるかを考える-高度な学問の特徴です。
 つまり、人間の中から真理が出ることはない、ということです。このことを知るのが、知恵です。
 ひねくれた結論かも知れませんが、人間自身からは真理も、救いも出ません。
 では、わたしたち人間は、どうすれば天の父の御心を知り、救いを受けられるのでしょうか。

 聖書を頼りにするのです。聖書には、天の父の御心が何か、はっきりと書いてあります。

 「わたしたちの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させること」(ヨハネ6:40)


 天国に入るためには、神の御心を行う必要があることは分かりました。「御心を行う」とはどういうことか、この世の知恵に頼らず、主イエスに頼りましょう。それは、「子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、終わりの日に復活すること」です。この文章が、救いの本質です。あらゆる聖句、教え、律法はこの文章に帰着します。なぜなら、これが神の御心であり、主イエスご自身がそのように言っておられるからです。これから人生を生きていく上で、何度も心に刻み、確認する必要のある、真理です。

 今までの話を整理すると、天国に入るためには、天の父の御心を行う必要があり、その御心とはイエスを信じることであることがわかりました。これが「救い」の本質であり、大枠の流れです。これが命に通じる道であり、律法学者やファリサイ派にまさる義です。

 しかし、多くのクリスチャン(自称)が、これほどはっきりと聖書に書いてあるにも関わらず、その通り信じず・行わず、地獄に行くこと、そしてまた、多くの人が救いや真理をこの世や人間に求めていることが分かりました。

 以上、「救い」とこの世の限界でした。ここまでの結論をざっくり言い直せば、救いにあずかるには、主イエスを信んじること、つまり信仰が最も重要であるこということです。兄弟姉妹にとって、予想通りの結論でしょう。 

 しかし、一口に「主イエスを信じること」が結論であり、唯一の救いの道と知っても、ぴんと来ない、何も変わらない、明日になればとうに忘れているというのが、わたしたちの罪深さです。わたしたちには、「では具体的に何をどうすればいいのか」の助言がいるのです。わたしはその助言を毎日必要とし、自分に言い聞かせています。

 多くの兄弟姉妹は、実のところ、この真理をすでに知っています。その通り考えを改め、実践した人もいるでしょう。しかし、その多くが、道中で自分の信仰に対して悩んだり、迷います。「不確かな信仰」を不安に思うのです。したがって、助言がいるのです。

 ここから、本題の「確信ある信仰を得るには」を記します。
 まず、信仰を考える上で、クリスチャンが大前提として受け入れていることをいくつか紹介し、次に確信を得るためのイマジネーションと具体的な方法論を記し、最後にクリスチャンがよく陥る罠を説明します。救いにつながるクリスチャンの思考回路と、イメージ/実践方法と、陥りやすい罠を知るようになるでしょう。


 大前提1:人間は救いにおいて、神様に完全に依存している。

 クリスチャンは、人間が完全に神に依存していることを大前提として考えます。原罪により、罪深い存在となってしまった人間が救われるのは、ただただ神の慈愛によるものです。人間自らの力だけでは決して救われません。人類を代表する最も清く、正しい聖人でもってしても、義とされるには程遠いのです。そもそも、神の慈愛なくしては人間に救いなど最初からないことを自覚するだけで、クリスチャンの信仰生活は守られ、育まれていきます。「神なしには救いはない。」ここに謙遜・謙虚と感謝の源泉があるからです。神の赦しと慈愛がなければ、人類に救いの可能性も希望も、最初からありません。したがって、人間は救いにおいて、神に完全に依存しているのです。

 大前提2:救いを得るか否かは、人間の意志によって決められる。

 クリスチャンは、自らの意志が、救いに直結することを大前提として考えます。神は人間に自由意志を与えました。その結果、人間は自由に物事を考え、自由に行動できるようになりました。神は人間に対して、二つの道を示しています。命に通じる道、死に通じる道です。神様の慈愛がなければ、最初から命に通じる道がないという意味で、人間は完全に神様に依存していますが、どの道を選ぶか-この選択において、依存から独立しています。人間は己の意志を持って、どちらかを選びます。この選択は、人間が自分の自由意志で行うものです。救いは神から始まり、神へと終わりますが、人間の意志なしには、成しえないのです。したがって、正しい道を選べば祝福され、間違った道を選べばその責任を負うのです。責任は、意志・行動の自由が前提条件にあるのです。
 神の救いと人間の意思決定との調和が、ハーモニーが、コラボレーションが、救いを成就させるのです。わたしたちは、御心がプログラムされたロボットの善い行いを見ても感心しませんが、自由意志を与えられている人間が御心を行ったときには、褒め称えるのです。

 大前提3:救いを得るには、神中心になることが必要不可欠である。

 自由意志を持つクリスチャンの究極の葛藤は、自分vs神です。自己中心か神中心か。一番かわいく、愛らしく、大切で、価値あるのは誰か、それは自分か、それとも神か。これをはっきりする必要があります。なぜお金持ちになりたいのか。実りある結婚を望むのか。有名になりたいのか。強くなりたいのか。頭がよくなりたいのか。健康になりたいのか。幸せになりたいのか。その答えの本質が「神のため」となることが神中心です。神の御心を行うために、わたしは息を吸い、睡眠をとり、食事し、お金を稼ぎ、パートナーを愛し、大勢の人の前に立ち、訓練し、勉強し、運動し、愛す-クリスチャンはこのような思考回路で物事を考えるのです。

 確信を得るための具体的な行動・アクションを助言する前に、まず、確信とは何かのイメージを共に膨らませ、確かのものにしましょう。確信とは何かがイメージできていないと、目指すことが困難になるからです。

 兄弟姉妹は、確信をどのようにイメージされていますか。
「確信」とは、「確かに信じる」ことです。確固たる信仰です。
 決して揺れることなく、強く深く、信じることです。
 具体的にイメージをつかむために、三人を例に出します。実際に確信を持った人を追うことが近道であるからです。

 順番は、主イエス、アブラハム、100人隊長です。
 主イエスは完全な確信を持たれ、アブラハムはその確信ゆえに神から祝福され、100人隊長の確信は主イエスお墨付き(驚かれ、喜ばれた)です。人選は申し分ないでしょう。

 主イエスは、十字架に処せられる前夜、ゲツセマネの森で神に祈ります。十字架刑以外で人間の罪を赦す方法はないかと祈られましたが、最終的には「神の御心に適うように」とされました。そして十字架に架けられるべく、移動されたのです。わたしたちは、聖書を長年読むことで、十字架刑すら、淡々と受け入れてしまう節があります。しかし、あの十字架刑です。わたしは十字架刑を想像するだけで気持ち悪くなります。想像を絶する肉体的苦痛を息絶えるまで受け続ける刑。ほぼ全裸に晒される恥辱。罪人でもないのに受刑する不条理。それを熟知しつつ、十字架へ向かっていく精神的苦痛。確信がなければ、確かに信じていなければ、説明がつきません。イメージすることで、そのことがわかります。感覚を研ぎ澄まし、十字架刑へと向かう主イエスをイメージしてください。

 アブラハムは神から自分の子イサクを捧げるよう命じられました。イサクを捧げる祭壇までの道のり、アブラハムの心情はどうであったでしょう。わたしは子を持ったことがありませんが、愛する我が子を自分の手で殺すことの苦悩は想像できます。愛しい我が子を己の手で殺せて命じられ、事実そのように行う(神が止められました)-絶対的な確信がなければ、神に対して疑念を抱く、信仰の危機になりかねない事件です。アブラハムの確信をイメージしてください。

 ルカの福音書7章に登場する100人隊長は、特筆に値する人物です。7:9「わたしはこれほどの信仰を見たことがない」というイエスの太鼓判付きの信仰を持った人だからです。重傷を負い、死にかけと思われる部下を治していただくために、イエスに助けを求めたのですが、その方法が、求め方が優れていたのです。以下隊長の言葉を、あまりにも感動的なので、全文引用しました。
7:6~8「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕を治してください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
 素晴らしい信仰です。確信がなければ、「ひと言」だけで部下が治るとは信じれないはずです。遠くから言葉を発するだけで部下の状態が良くなるなど、よほどの確信がなければできないことです。100人隊長の確信をイメージしてください。

 以上三人の確信をイメージすることで、確信とはどういうものか理解されたかと思います。

 それでは、確信ある信仰を得るための、具体的な方法論に入りましょう。
 さっそく方法論の結論から行きましょう。


 結論:確信ある信仰を求め、信仰を維持・成長させる技術を身に付ける。

 では、具体的に。


 「確信ある信仰を得、維持・成長させる」ための三つの具体的なアクション

 ①神に確信ある信仰を、祈り求め続ける。(悔い改め、神の前にひざまずき、依り頼む)
 ②確信を持って行動する。(確信がすでに与えられたと考え、その通り行動する)
 ③信仰を維持・成長させる。(礼拝、説教、聖書勉強、賛美、証し、交流)

 アクション①が最も重要です。大前提でも書きました通り、神様なくしては確信を得ることも、維持・成長させることもできません。①を最優先して継続的に行いつつ、②と③に励んでください。
 アクション②は、思い切って確信を得た者、赦された者として生きることです。見えないものを信じ、確信する者を、神様は喜ばれ、祝福されます。確信を求める祈りをした後は、祈りが答えられたと考え、確信を持って毎日の生活の中で働くことです。
 アクション③、確信を維持・成長させるために、礼拝を捧げ、説教を聞き、聖書を学び、賛美し、証しを話す・聞き、兄弟姉妹と交流することは、非常に有益です。確信を維持・成長させる上で、多くの御言葉を得られるでしょう。

 最後に、多くの人が陥る罠を紹介します。確信や信仰生活を妨げる障害物を取り除くためです。

 罠1 「信仰至上主義」 “信じるだけでいい”

「救い」がテーマになると、常に議論されるのが信仰と行いの関係性です。しかし、信仰と行いを分けて考えることほど、愚かなことはありません。これらはつながっているものなのです。
 前述のとおり、神の御心が「子を見て信じる」ことであるから、主イエスを信じることが必要であることは有無を言わせない事実です。そして、前述した三人のイメージにあったように、主イエスを信じる確信を持った人たちは、明らかにこの世の常識と離れた、つまり確信を持った行動を行っています。
 また、タラントンの例え(マタイ25:14~30)、実によって木を知る例え(マタイ7:15~23)、家と土台の例え(マタイ7:24~27)など、すべてイエスが話された例えの一部ですが、そのどれもが行いの重要性を強調する例えです。
 行いによって偽予言者か否かを見分けよと言われることから、信仰の結果が行いに表れることがはっきりと分かります。つまり、神を信じているといいながら、それが行いに表れていない場合、その人はクリスチャンではないのです。偽預言者であり、上記の「主よ、主よ」と唱えている地獄行きの集団に属しているのです。
 人間の行いによって救いを得ることはできない-これは正しいです。罪深き人間に救いの希望があるのは、イエスの十字架があって初めて成り立つからです。救いは決して行動の成果、成績によって勝ち取るようなものではありません。しかし、イエスを信じると告白する人が、行いを改めず、神の栄光をその行いにて表さないのであれば、そこに何の意味があるでしょうか。確信は、必ず善行として表面化するのです。

 罠2 「完璧主義」 “完全な人間たれ”

 クリスチャンは、決して完全な人間ではなく、完全になることもできません。神を信じ、神の栄光を褒め称えるために一生懸命に生きるものの、所詮はただの人間なのです。確信を求める人のうち、あらゆる面で完全になろうと考える人がいます。その人なりに、熱心にがんばり、完全になるために人一倍努力します。しかし、そのように努力すればするほど、己の罪深さを思い知り、絶望と挫折を経験します。その結果、心身ともに疲れてしまい、確信への道から離れてしまうことがあります。また、「自分の神格化」を疑わない人は、至らない他人を見て、心の中で蔑むものです。
 断言しますが、人間は完全になることはできません。聖書全体を見通しても、人間であり神でもある主イエスを除けば、ただの一人もいません。
 アダム、アブラハム、ダビデ、モーセ、パウロなどなど、わたしたちよりはるかに神中心的である彼らでさえ、神に背き、恐ろしい罪を犯しました。アダムは禁じられた実を口にし、アブラハムは敵を恐れ妻サラを妹と偽り、ダビデは部下ウリアを激戦区に派遣し死なせ、ウリアの妻と関係を持ち、モーセはエジプト人を殺し、メリバの争いで神に対して罪を犯し、パウロは主イエスを三度に及んで知らないと言いました。神の御言葉を直接聞き、肉眼で奇跡を目撃し、神の働きを五感で感じることができた-この上ない祝福を得た彼らでさえ、つまずいたのです。彼らは決して、完全ではありませんでした。
 あなたは、どうあがいても、どう思っても、完全になることはできません。それは神の領域です。いち早く、その罪深い思い上がりを、決して背負えない重荷を、下ろしてください。牧師のつまずき、尊敬するクリスチャンのつまずき、自分のつまずきは、不自然なものではありません。人間は完璧ではありません。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして完璧な神に近づくことが、人間ができる最善なのです。

 罠3 「懐疑主義」 “世の中を見ろ。わたしを見ろ。慈愛の神など存在しない”

 年中ニュースで報じられる暴動テロ、大飢饉、大災害、伝染病の流行、貧困、内戦、サイバーテロ、核拡散、反社会的・反国家的運動、ナショナリズムの高揚、連続殺人、拉致、強姦、詐欺、強盗などなど…悪い出来事はこれでもかと繰り返され、悪化しているようにも思えます。
 個人レベルでも、家族・親族の急死、交通事故、オレオレ詐欺、浪人、失業、障がい、いじめ、ハラスメント、金欠、心身ともに貧困、被災、通り魔など、皮膚感覚でも世の恐ろしさを知っています。
 神は愛の神であり、この世を愛された。わたしたちを愛され、もっともよいものを下さる。この信仰と、世の現実とを比較して、信仰の危機に直面し、神から離れ、憎しみすら覚える兄弟姉妹がいます。聖書を少し勉強された方の場合、疑念のレベルがもっと高いでしょう。神が全知全能で時空を超越し、その帰結として未来を予見できるのであれば、なぜ善悪の木を植えたのでしょうか。原罪の原因となってしまう恐ろしい木をなぜ植えたのでしょうか。罪を犯すことを、十分予見できたはずです。また、ノアの方舟は度が過ぎたのではないか。全知全能であれば、せっかく造った愛しい人々を大量に殺さずとも、罪を赦すことができたのでないか。また、なぜ、神に祝福されたはずのイスラエルの民はいくども異邦人から侵略されたのか。極め付けはバビロン捕囚だ。
 まず、悲劇によって心身ともに痛みのうちにあり、苦しみの中にある兄弟姉妹のために、お祈りします。ともに苦しみ、ともに悲しみ、ともに泣きましょう。
 断言します。この世の罪、あらゆる不義、不条理、犯罪の存在は、神を否定する根拠とはなりえません。悪の存在は、愛の神を否定しません。このことは、あまりにも自明なのですが、時と場合によって、また知恵の成熟度に応じて、解釈や理解に障害を引き起こしています。
 このことを正しく考えるうえで重要なキーワードが三つあります。「超越性」、「自由意志」、「イエスの十字架」です。
 神は全知全能です。すべてを知っており、すべてのことを行う能力があります。過去・現在・未来の時空を越えられ、全宇宙が神の御心とご計画に基づいて動いています。神の意思決定や御心を、わたしたち被造物である人間が、理解できるでしょうか。神のご計画を完全に把握することなどできません。昨日の意味、今日の意味も分からず、明日もどうなるか分からない人間が、目前の出来事や限られた情報を頼りに神を評価することなど、そもそもが不可能です。神の「超越性」を受け入れ、人間の知性では理解しかねる領域があることを謙虚に認めることです。
 真の喜び、善、栄光は、自由意志を源泉とします。自由意志のない人間に、真の喜びが、善が、栄光があるでしょうか。悪いこともでき、怠けることもできたのに、そうせず、良いことを行い、ひたむきに努力するからこそ、そこに価値があるのです。人間が、罪を犯す自由があるからこそ、罪に挑戦し、戦い抜き、清く生きるときに、神の栄光が高められるのです。人間が自由意志を得た結果として、2015年、今のような世の中となっています。もはや嘆くしかない悲惨さ・悪逆非道さがあれば、光り輝く正義・幸福もあります。罪が犯されるごとに、最も悲しまれ、傷つけられるのは神です。それでもなお、自由意志をお与えになった意味を考えてください。
 神の愛が端的に表れたのがイエスキリストの十字架です。人間の堕落が一線を越え、絶望するほかない状況で、最愛なる子イエスを世に送られました。それは、人間の罪をその血潮によって完全に、永久に贖い赦されるためであり、それは十字架によって成就しました。十字架は、罪の赦しとともに、この世の悪との戦いを意味するものでした。ゆえに、クリスチャンは己の十字架を背負い、今日もこの世の悪と戦っているのです。どんな試練、どんな苦難、どんな不条理があったとしても犠牲をいとわず突き進み、苦しみの中で神と至福の喜びを分かち合おう、こうクリスチャンは考えるのです。
 神は慈愛の神であります。神はわたしたちを愛されます。神は一番よいものをわたしたちにくださいます。神の「超越性」、わたしたち人間の「自由意志」、神の深い愛による「イエスの十字架」を思い起こし、信仰の罠を軽々と飛び越えていきましょう。
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 あなたが救われることを心から願います。
 あなたは、神に愛され、クリスチャンから愛される、大切な人です。
 あなたの存在、呼吸、笑顔、喜び、性格、外見、行い、すべてを愛されます。
 わたしは、クリスチャンとして、ありのままのあなたを愛することを、約束します。
 I love you.

 神様が必ず、あなたに御業を行われ、祝福されることを、確信しています。これまでの長い文章を読み返して、命の糧にしてください。わたしたちは弱いものであり、大切なことをすぐ忘れてしまいます。忘れず、何度も読み返し、求めつづけてください。

 当初の問題に戻ります。
 最初の問題は「どうすれば大きな者として天国に入ることができるのでしょうか。」でした。

 主イエスを信じれば、救われます。そのことは間違いありません。しかし、神様を喜ばせるために、神様から与えられたタラントやあらゆるものを活用して、「大きな者」として天国に入りたいものです。

 長文、お疲れ様でした。お読みいただき、本当に嬉しいかぎりです。
 もし内容を忘れてしまったのなら、どうかもう一度読み直してください。
 神に仕え、あなたに仕えるものとして、つよく、つよくお願いします。


 聖書にはわたしたちクリスチャンのことを愛らしく思い、その救いを切に願って書かれた文章がたくさん記録されています。「○○への手紙」です。この記事と同様、いえ、はるかに精緻かつ心に伝わる文章です。ぜひ読んでください。おすすめはローマ、コリントです。

*主観による脚色、解釈があれば、批判してください。即刻確認と改善に徹します。
*個人的な相談、要望などがあれば、serveforgod27〔あっと〕gmail.com までメールを送ってください。
*できれば、兄弟姉妹の信仰生活を支えるために、コメントをお願いします。
*画像URL(http://mrg.bz/ZuGMaf)


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