(最重要) 確信ある信仰を得るには
愛する兄弟たちへ。11月9日に投稿する予定でしたが、大変遅くなりました。実は、「確信ある信仰を得るには」について神に祈り、聖書を読み、兄弟姉妹と話すうちに、そもそも「救い」とは何だったのかについて改めて考えていました。
どうすれば、確信ある信仰を得るのか、だけではなく、そもそも「救い」とは何で、なぜ信仰が重要なのかを合わせて、何度も書き直しました。文章の長さはブログ記事というよりも本の「はじめに」、序章ぐらいの量です。時間に余裕があるときにまとめて読んでください。30分は優にかかります。
少し筆者(タイプ者が適切ですね)のことをお話します。私は大学2年生で、今年満二十歳です。「確信ある信仰を得るには」という仰々しい記事を書きましたが、当の本人は尻の青い弱冠者で、まだまだ発展途上の者です。クリスチャンの家庭に生まれ、教会はこの方20年間毎週通いました。単純計算で1040回(20年x52週)教会に行っていることになります。大学1年生のころ、交通事故をきっかけに確信を得て、夏休みに初めて聖書を最初から最後まで、旧約と新約を通読しました。聖書ノートには新たに知ったことと疑問点をメモしました。聖書の手引きや聖書に関して書いてある書籍は一通り目を通しています。神の祝福のおかげで、聖書のことならある程度話せるようになりました。
20歳の若造ですが、これまで私に与えられた知恵を総動員して、書きました。全ての内容は新約聖書(新約が旧約を完成させたからです)の御言葉をもとに書いています。後述しますが、聖書以外に真理を示すものはないからです。また、極力神様もしくは主イエスご自身が語られた御言葉を基盤にしました。
もう、大人ですし、それくらいはできます。
主観による脚色、解釈があれば、批判してください。即刻確認と改善に徹します。
このブログの最大の目的と動機は、自分自身の救いと兄弟姉妹の救いです。
以下、本文です。兄弟姉妹に救いが訪れるよう、切に祈ります。アーメン。
愛する兄弟姉妹へ。これを読んでいるあなたへ。
与えられた知恵をお分けします。
兄弟姉妹一人一人の救いを切に願い、愛を持って一生懸命、書き記しました。
祈りを込めた、文章です。
神の御計画によって、御業が行われますように。アーメン。
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この世において、つまり、人生において、
わたしたちの最大の成功は、大きな者として神の御国に入ることです。
わたしたちの最悪の失敗は、地獄に堕ちることです。
ではどうすれば大きな者として天国に入ることができるのでしょうか。
正確に言い換えるならば、どうすれば天国に入ることが“赦される”のでしょうか。
この問題に答えるべく、この記事では「救い」についてお話しします。
改めて、救いの本質を知り、この世の限界について知り、確信を得る方法を知ることになります。
これらは、兄弟姉妹のみなさまがすでによく知っておられることですから、考えの整理になるでしょう。
繰り返しますが、記事の内容はすべて聖書の御言葉をもとに、書いています。
問題は、「どうすれば大きな者として天国に入ることができるのでしょうか。」でした。
結論から行きましょう。
この問題に答えるべく、この記事では「救い」についてお話しします。
改めて、救いの本質を知り、この世の限界について知り、確信を得る方法を知ることになります。
これらは、兄弟姉妹のみなさまがすでによく知っておられることですから、考えの整理になるでしょう。
繰り返しますが、記事の内容はすべて聖書の御言葉をもとに、書いています。
問題は、「どうすれば大きな者として天国に入ることができるのでしょうか。」でした。
結論から行きましょう。
結論:確信を持って、神の御心を行うことです。(後述しますが、「行う」とは行い以上の広義の意味です)
この一言に聖書のすべてが集約されます。
主イエスご本人が教えられた真理であり、唯一の救いの方法です。
この結論を聞き、そのようなことはすでに意識している、求めているとおっしゃられるかもしれません。
しかし、
現実:ほとんどのクリスチャン(自称)は天国に入ることができないでしょう。
悲しいことに、ほとんどのクリスチャン(自称)は天国に入ることができないでしょう。地獄行きです。なぜ、そう言えるのか? 三つ、聖書からその根拠を示します。
1. 「しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」(マタイ7:14)
はっきり言いますが、命に通じる門は、わたしたちが考えるより、はるかに狭く、細いのです。
2. 「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」(マタイ5:20)
律法学者やファリサイ派の義よりもまさる義を“赦され”、守り抜き、育てる人は極少数でしょう。
3. 「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」(マタイ7:21~23)
大勢のクリスチャン(自称)、天国に入れると信じ切っている人達が、拒絶され、地獄に行くことが、すでに主イエスによってはっきりと預言されています。恐ろしい預言です。
聖書の御言葉と、この世における現在のクリスチャン(自称)の実態を見れば、大勢が救われないことは明らかです。「ほとんどのクリスチャン(自称)は天国に入ることができない」という指摘は、決して根拠のない暴言・妄言ではないのです。主イエスの御言葉に基づいています。
クリスチャンの後に自称と付けたのは、彼らはクリスチャンではないからです。クリスチャンとは、確信を持って神の御心を行う者であり、神の御心を行っていないなら、その人はクリスチャンではありません。親がクリスチャン・毎週教会に行っている・洗礼を受けたなど、環境や習慣などがクリスチャンを規定するのでなく、神の御心を行っているかどうかの有無がクリスチャンを規定するのです。御心を行っていないのに、クリスチャンであると自称する者たちは有害であり、当然ながら上記の聖句にある通り、救われません。
繰り返しますが、わたしはこれを読んでいるあなたと自分自身の救いのために、愛を持って一生懸命書いています。あなたが救われるために、受け入れがたい真理も示さなければなりません。ですが、神の確信を持つ者として、神の御計画によってあなたに神の御業が働かれることを確信しています。
主イエスの預言にある通り、少なくない自称クリスチャン達(ノンクリスチャンは目も当てられません)が天国に入れず、地獄に行くことを、まず認めてください。主イエスの預言は必ず成就します。この厳しく、恐ろしく、悲しい真理を受け入れてください。「主よ、主よ」と唱える集団の中にあなたもいるかもしれません。わたしも、事故を経験する前は、その中にいました。そして、気をつけなければ、いつ戻ってしまうか分かりません。
では、なぜ彼ら・彼女らは救いにあずからないのでしょうか。彼ら・彼女らの言い分を聞けば、天国に入るべきと考えるのが自然です。御名によって預言し、悪霊を追い出し、奇跡を行ったと言っています。御名によって行ったという、立派な主張です。これ以上説得力のある主張はないでしょう。あなたも主イエスの前でそう言うかもしれません。
最大の問題は、天の父の御心を行っていない、ことです。
マタイ7:21、主イエスの御言葉です。「わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」あれ?おかしくないですか?大勢のクリスチャンは御名によって色々行ったと主張しています。
ここで分かるのは、彼ら・彼女らの考える「御名によって」は、天の父の御心とは一致していないという事実です。
「実は、天の父の御心を行っていない」のです。この問題を掘り下げると、
真の問題は、天の父の御心を、本質を、勘違い・無視・悪用している、と言えるでしょう。
大勢のクリスチャン(自称)は本質を勘違いし、見失っているのです。もしくは、「御名によって」と言いながら、神の権威を利用・悪用しているケースもあります。本質を神と共に考え抜くことなく、外の情報をそのまま鵜呑みにしていることに危機感がありません。間違っているかもしれないという自覚がないのです。今の世の中の現実を見ると、無理もないことです。何が本質か分からないよう、非常に混乱し、倒錯した、複雑怪奇な社会になっています。真理を表す・説明する御言葉や考え方の種々雑多さに異論はないでしょう。一年に52週あります。毎週教会で説教がありますから、一年に52回もの説教があることになります。
基本的に、説教は毎回違う御言葉・聖書箇所を教えます。日本聖書協会が発行している新共同訳聖書は旧約・新約を合わせて、全部で1982ページ(1502+480)あります。
キリスト教には教派があり、大別して東方教会、西方教会があります。さらに大別して、東方教会は正教会と東方諸教会、西方教会はカトリックとプロテスタントに分かれています。それぞれが、それぞれの主張を持っています。
キリスト教「だけ」を見ても、このように膨大な考え方と情報とが混迷を極めています。
他の宗教をも含めると、何が何だか分からなくなります。
これでは、唯一でおられる神、天の父の御心、つまり人生の本質を見失ってしまいます。
一体何が、どれが、真理なのでしょう。一体全体、救いの道はどこにあるのか。
その答えを、自分自身や友人や知り合い、専門家など、人間に求めてはいけません。
「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。」(コリントⅠ1:21)
この世の知恵では神を捉えることができません。この世の知恵の限界を認めてください。この世の知恵は、むしろ、神について知らないことを知ること、神の御業を明らかにしていくこと、神の御業を行うことに意味があります。知恵が豊かになるほど、いかに無知であるかわかるものです。この世の知恵では、真理は分かりえない、真理に到達できないことを、受け入れてください。わたしは大学生で、大学で学問を勉強している者ですが、学問の限界を受け入れています。神学、科学、経済学、法学、生物学を究めたところで、神の御心を、全宇宙の摂理を完全に把握するには遠く及ばないこと、学問的知識を持って思い通りにこの世をコントロールすることなどできないことを、謙虚に認めることです。真の学者は己のものさし(専門知識)の限界と弱点を承知しています。もう少しだけ、この点について強調するならば、最近の高度な学問は「不確実性」というものを取り入れています。学問によって、「不確実性」を「カオス」や「複雑系」など別の名称で呼びますが、要は、「分からない」ことを謙虚に認め、それらに対応すべく新たな理論を構築しようというものです。学問が、己の限界を知り、分からないことに対して何ができるかを考える-高度な学問の特徴です。
つまり、人間の中から真理が出ることはない、ということです。このことを知るのが、知恵です。
ひねくれた結論かも知れませんが、人間自身からは真理も、救いも出ません。
では、わたしたち人間は、どうすれば天の父の御心を知り、救いを受けられるのでしょうか。
聖書を頼りにするのです。聖書には、天の父の御心が何か、はっきりと書いてあります。
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