2015年2月2日月曜日

【イエス行動論49】 洗礼者ヨハネとイエス① マタイ11:2~6

洗礼者ヨハネとイエス① マタイ11:2~6

主イエスによる、洗礼者ヨハネへの御言葉。
















 聖句要点引用

2節、ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、
3節、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
4節、イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。
5節、目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
6節、わたしにつまずかない人は幸いである。」

 共に分析

 イエスの知恵と慈しみを学びましょう。
 主イエスを信じない人たちも、主イエスについて知っている人たちは、主イエスの知恵を認めます。主イエスのたとえ、解釈、教えには知恵の宝石がちりばめられており、ノンクリスチャンも多くを得ています。今日の御言葉で主イエスの知恵が如実に表れているのは5節の箇所です。知恵とは、対象とする事物の知識を有し、目的を達成するために知識を応用することです。実は、5節は旧約時代の預言者イザヤが預言したものに基づいています。
 イザヤ書35:5~6
5節、そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が聞く。
6節、そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。
 内容が非常に似通っているため、おそらくこの預言を意識して語られたと考えます。
 つまり、まず知識のレベルで、旧約時代の預言に精通し、熟知していたことがわかります。
 しかし、なぜわざわざ預言を想起させる言葉を使ったのでしょうか。ここに、知識の応用である、知恵が認められます。それは洗礼者ヨハネにとって必要な言葉でした。2節と3節を読むことで、ヨハネの心情をイメージできます。ヘロデ王の不法を批判したことで牢に放り込まれたヨハネは、最終的に斬首刑を受けて死にます。3節は、かの洗礼者ヨハネには似つかない言葉です。ヨハネは主イエスが誰であり、なぜこの世に来られ、何をするのか、はっきりとわかっています。主イエスに洗礼を授けた人です。にもかわらず、さらなる確証を求めています。おそらく、過酷な投獄生活、死への恐怖、想像していた主イエス降臨が合っていなかったため、心が弱くなったと考えます。では、ヨハネにとって何が確証となるのでしょうか。
 「預言」です。預言とは文字通り、預かった言葉である、それは預言者を通した、神ご自身の言葉なのです。したがって、有無を言わせない絶対性があり、確証となり得るのです。主イエスが、旧約時代の預言をベースに、その預言が成就していることを伝えなさいとしたのは、こういう理由があったのです。
 さらに、ヨハネの弟子たちに6節、「わたしにつまずかない人は幸いである。」と言いました。ヨハネのつまずき、いわば不信仰に慈愛の言葉で接したのです。つまずきを覚えているヨハネにとって、主イエスの返答は宝のように頼もしく、救いとなったはずです。

 イエス行動論要約

 イエスは、洗練者ヨハネに確証と慈しみを与えました。預言の成就で確証を、御言葉で慈しみを。

 今日の試み

 洗礼者ヨハネはマタイ11:11にありますが、「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者より偉大な者は現われなかった。」とあるように、ナンバーワンクリスチャンです。しかし、そのヨハネですら、過酷な試練にぶつかり、確信が揺り動かされました。これは、人間として仕方のないことかもしれません。ただ、ヨハネが優れていたのは、神に確信を求めたことです。試練に直面して、神に背いたり、諦めたりするのではなく、耐えながら求めたのです。
 あらゆる誘惑に無敵であるのがクリスチャンではなく、倒れても神を求めて再起できるのが本当のクリスチャンであると信じます。人間は人間なのです。それ以上も、それ以下もないのです。

兄弟姉妹のみなさん、一人一人を愛します。
ありのままのあなたを愛します。I love you.
神の栄光をほめたたえます。ハレルヤ!^0^
 (画像URL:http://mrg.bz/fUIIS7)

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