2015年2月3日火曜日

【イエス行動論50】 洗礼者ヨハネとイエス② マタイ11:7~19

洗礼者ヨハネとイエス② マタイ11:7~19

主イエスの他者理解の姿勢。


 聖句要点引用

12節、彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。
15節、耳のある者は聞きなさい。
16節、今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。
17節、「笛を吹いたのに踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに悲しんでくれなかった。」
18節、ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、「あれは悪霊に取りつかれている」と言い、
19節、人の子が来て、飲み食いすると、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。

 共に分析

 イエスの他者への姿勢とたとえの意味を学びましょう。
 「わたしはチーズのようだ。」「彼女は微生物のようだ。」これらの例え方は主イエス的になり得ます。主イエスは、17節にある通り、意識的に聴衆向けのたとえを用いられました。したがって、料理人にはチーズのたとえを、科学者には微生物のたとえを用いるでしょう。ここに、メッセージや伝道の伝え方の極意があるのです。日本人はキリスト教の存在について認識しており、その主張する教義についてもある程度の知識を持っています。日本の人々に、「あなたは救われた」、「神はあなたを赦される」、「十字架を背負いなさい」などと伝道することは、相手にもよりますが、大方知恵のある行動ではないでしょう。主イエスは、まず日本人の人々がどのような人なのか、どのような文化で持っているのか、どうゆう物の捉え方をしているかを、つぶさに見られます。そして、その人々に合った、適切な方法で教えられるのです。つまり、伝道や教えは、相手を最大限理解しようとする姿勢が重要なのです。一人一人、背景も育ちも考え方も異なるからです。主イエスのような姿勢を持ってください。相手に関心を持ち、相手に合った形で話しましょう。
 当時の子共たちは、今もあると思いますが、結婚式ごっこや葬式ごっこをやっていました。子供たちの遊びで、かくれんぼや鬼ごっこみたいに誰でもやったことがあり、知っていることです。主イエスは他者を理解しようとするその姿勢により、当時の人々が結婚式ごっこや葬式ごっこで遊んでいたことを見たのです。したがって、17節のようにたとえられました。
 17節のたとえは、人々が救いの御手を拒絶する様子をたとえています。
 「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった」これは結婚式ごっこですが、主イエスの降臨というこの世において最高の出来事が起き、空前の祝祭ムードになるはずが、誰も踊らないーつまり誰も喜んでいない現実を的確に指しているのです。主イエスがもたらした福音と祝福を、人々が拒絶しているのです。
 「葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった」これは、18節に言及されている洗礼者ヨハネのことを指すと考えています。これははっきりわかりませんが、現時点でこれが一番妥当な解釈だと考えます。洗礼者ヨハネは、禁欲的な生活を送り、人々に「悔い改めなさい」と教えられました。己の罪深さを嘆き悲しみ、悔悛を求めたのです。その厳しく、悲しい教えは、主イエスと対照的で、その意味で葬式の歌であると考えます。このたとえにも、人々がヨハネの教えを受け入れない様子がたとえられています。
 このように、ヨハネや主イエスの教えを聞かない、受け入れないため、15節、「耳ある者は聞きなさい」と言っているのです。

 イエス行動論要約

 イエスは他者を理解する姿勢を通して、人々の不信仰と救いへの拒絶をたとえられました。

 今日の試み

 本当に誰かを救いたいと思うならば、その人を本気で理解する必要があります。隣人愛の実践とは、抽象的にみなを愛することではありません。みなを愛するという意味では平等性がありますが、その愛は具体的であるべきです。救いたい人のことをもっと知りましょう。その人はどういう過去があり、どういう文化で育ち、どういう考え方を持ち、今どういう境遇にあるのかなどを熱心に知ろうとする姿勢を身に付けましょう。愛の反対は無関心なのです。主イエスは目の前の相手をつぶさに見られ、他者を理解されます。

兄弟姉妹のみなさん、一人一人を愛します。
ありのままのあなたを愛します。I love you.
神の栄光をほめたたえます。ハレルヤ!^0^
 (画像URL:http://mrg.bz/fUIIS7)

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