2014年9月29日月曜日

【イエス行動論11】 離縁してはならない マタイ5:31~33

離縁してはならない マタイ5:31~33

 新約における離縁と姦通について教えられている。

 要点聖句引用

31節、「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。
32節、しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。

 共に分析

 イエスの教え方と御言葉の本質を学びましょう。
 その前に、用語の定義を。離縁とは「夫婦または養親子の関係を解消すること(wikipedia)」で、姦通とは「社会的、道徳的に容認されない不貞行為、性交渉(wikipedia)」です。離縁と離婚は同義です。
 イエスの教え方は、これまで共に見てきたものが繰り返されています。過去➡現在という論理的順番と、「しかし、わたしは言っておく」というキーワード。黄金パターンです。このパターンは人間がつくったものではありません。これは、イエスの教え方の分析の結果です。論理的順番とキーワードの持つ意味を考え、見習うべきです。細かい説明は、過去の投稿を参照してください。(論理的順番キーワード)。
 この御言葉の本質は何なのか。
 「神の国とその義を求める」と「隣人を自分のように愛せよ」です。
 離縁してはならない理由が、31節に書いてあります。その理由は、結婚に不法性がないにもかかわらず、離縁した場合、女は姦通の罪を犯し、また、その女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる、ことです。
 こういったイエスの教えを受け入れるためには、わたしたちのそもそもの目的、目標を明確に理解する必要があります。こうした教えでつまずきが起きるのは、個々の「~してはならない」にだけ焦点を当て、その教えの真の意味を汲み取っていないからです。近視眼的な姿勢では、この御言葉は受け入れるのが大変難しいでしょう。法律には例外がつきものであるからです。重婚はよいのか、不法な結婚なら離縁してもよいのか、「不法」とは具体的にどういう基準か、などなど。これらは全て有意義な議論ですが、往々にして律法主義に陥り、そもそも律法が持つ役割を忘れてしまいます。
 御言葉の本質、そしてわたしたちの存在の本質は、第一に神の国とその義を求め、隣人を自分のように愛することです。もう一度言います。わたしたちの存在の本質は、第一に神の国とその義を求め、隣人を自分のように愛すること、なのです。
 離縁に関する神の御心はマルコ10:9を見れば一目瞭然です。9節、「従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」です。これが神の御心です。
 はっきり言いますが、わたしたちの人生の目的は最愛のパートナーを探すことではありません。それらは有意義なことですが、二義的なことなのです。そして神はわたしたちが必要とすることをすべて与えられます。何が正しいか否かといった知恵も神が承ります。
 現代ではワイドショーなどで離婚や不倫が「経験者」や「ベテラン」といった形で登場しますが、これらは人間中心、自己中心的生活です。神中心的生活を歩みましょう。

 イエス行動論要約

 イエスの教え方のパターン(過去➡現在、キーワード)を再び確認。「離縁してはならない」を受け入れる上で、わたしたちの人生の意味、存在の意味を自覚することが重要。それは、第一に神の国と神の義を求め、隣人を自分のように愛すること。
 今日の試み
 「離縁してはならない」の教えの真意を考えましょう。神様の御心が分かれば、複雑かつ様々な例外がある現実社会においても、善い判断をすることができます。兄弟姉妹を大別して未婚者・既婚者とすることができます。それぞれにどういうメッセージを神は送られているのか、考えてください。

(「である」口調を「です・ます」口調に直しました。この方が兄弟姉妹に伝わりやすいと判断したからです。)

ブログ訪問、ありがとうございました。
神の栄光をほめたたえます。ハレルヤ!^0^

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