題目: 山上の説教(垂訓)を始める マタイ5:1~12
かの有名な山上の説教です。山上の垂訓ともいいます。
聖句要点引用
3節「心の貧しい人々は、幸いである…天の国はその人たちのものである」
4節「悲しみ人々は、幸いである…慰められる」
5節「柔和な人々…地を受け継ぐ」
6節「義に餓え渇く人々…満たされる」
7節「憐れみ深い人々…憐れみを受ける」
8節「心の清い人々…神を見る」
9節「平和を実現する人々…神の子と呼ばれる」
10節「義のために迫害される人々…天の国はその人たちのものである」
12節「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」
共に分析
イエスにより、幸いの再定義と喜びを学びましょう。
クリスチャンではなくとも、一度は聞いたことがあろう有名な箇所である。山上の垂訓は、ことごとく世の常識をひっくり返し、人々を仰天させる。
イエスは幸いを再定義したのだ。3節「心の貧しい人は、幸いである。天の国はその人たちのものである」。はっきり言おう、心の貧しい人が幸いであるはずがない。そうではないか?貧しさは欠落、不満足であり、不幸である。しかしイエスは幸いと言っている。当時の群集も、現代人も「は?」というリアクションを取るはずだ。心の貧しい人が幸いである根拠は、天の国がその人たちのものであるということだ。
現代人は、私を含めて、悲しみたくない、人に悲しみを与えることで自分が回避できるなら、そうするだろう。柔和であると損をする。騙される。悪賢く、人を出し抜く方法を講ずるのが得策である。義のような抽象的で、人によって異なるようなぶれぶれの価値より、カネを信頼した方がよい。人を憐れむ余裕などなく、まして、自分を傷つけた奴らを許してやることなんか考えられない。慰謝料をたんまり請求して、重刑を受けさせてやりたい。心の清い奴なんて、いないし、いても、偽善者だ。心よりも能力だ。何をどう思うかじゃなくて、何をするかが重要。心の清さとか、甘えてる。平和を実現するとの名目でボランティアしているが、それも甘えてる。平和じゃなくて自己実現だろ。義のために迫害を受けるって、あり得ない。危険を通り越して、馬鹿じゃないか?
➤これが世の常識である。イエスはことごとくこの反対を言われる。耳が痛いが、世の常識とイエスの教えには、これほどまでに深刻なギャップがあるのだ。
イエスの言葉は真理である。
人は悲しんでも、慰めがある。神の御国があるのだ。この世で失敗し、死ぬまで悲しんだとしても、クリスチャンなら神の御国を待ち望み、喜んでいられる。柔和な人は、この世に執着しないゆえ、財産を大胆に分け与え、時間・労力を人のために喜んで使う。神の国に大いなる財産を築いているのである。
クリスチャンは正しさと信仰に餓え渇く。この世が作り上げた人工的生成物ではない。カネ・名誉・権力ではなく、神の前で正しくされるか否か、確信のある信仰が否かなのである。そこに強い関心があるのだ。そしてそれは、必ず満たされるとイエスは約束してくださっている。6節以降も、まさしく真理である。
神の御国とその報いは約束されているのだ。そのことの意味が、本当に分かると、12節の喜びが心から溢れ出ます。人間が考えうる範囲で、最も価値のあるものを与えられたからです。
イエス行動論要約
イエスは初めに、幸いな人とは誰か、再定義され、大いに喜びなさいと教えられた。説教や伝道は再定義を内包する。この世の常識や計りでは理解不能な御言葉であるからだ。
クリスチャンはまず、神の御国を信じ、喜ぶ。この世の煩いから解き放たれることで、悲しみに堪え、柔和になり、義に餓え、憐れみ、心清く、平和を実現するために、義の迫害に堪え、生きることができる。全ての苦痛・苦悩に堪えることができ、幸いであると神に感謝し、喜ぶことができる。その根本は、神の御国の約束と報いの信仰である。
今日の試み
あなたは、嬉しいときに読む聖句、悲しいときに読む聖句、励ましがほしいときに読む聖句がありますか?
わたしはこの山上の垂訓を、苦しいときに読み、なぐさめられ、力強められています。そして、読み返すうちに、新たな発見や知恵が与えられます。
あなたも、このようにMy聖句があるとよいと思います。
喜んでいるとき、悲しいとき、怒るとき、特に参照する聖句を決めましょう。
そして、他の兄弟姉妹が強められるように、下にコメントし、御言葉を共有してください。
ブログ訪問、ありがとうございました。
神の栄光をほめたたえます。ハレルヤ!
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