人を裁くな マタイ7:1~6
神はわたしたちの謙虚さを見られます。
聖書要点引用
1節、人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
2節、あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
3節、あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
5節、偽善者よ、まず自分の丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。
共に分析
イエスの教えの本質と、謙虚さを学びましょう。
今回の御言葉の本質は、「隣人を自分のように愛する」ことです。
人を「裁く」とはどういうことでしょうか。裁判所がイメージしやすいと思います。当人の罪状を推し量って、裁くべきか否か、裁きの程度などを判断し、法律に基づいて罰を言い渡すところです。イエスの教える「裁く」とは、もっと広い意味合いを持ちます。権力や力によって人に罰を与えるというだけでなく、人を悪い者と「量る」ことも、「裁く」に含まれます。3節にその根拠があります。兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、自分の目の中の丸太には気づかないのです。つまり、他人の罪はすぐ分かるのに、自分の大罪を自覚していないということです。人のおが屑に注目し、人を量り、悪い者であると判断するのは、「裁く」に当たります。
ではなぜ「裁く」ことをしてはならないのでしょうか。罪は罪ではありませんか。イエスは三つの理由を教えています。1節、人を裁かない理由は、わたしたちも裁かれないようにするためです。2節、わたしたちは、自分の裁く裁きで裁かれ、量る秤で量り与えられるため、人を裁かないと、裁かれません。人を量らないと、量られません。
もしかしたら、この二つの御言葉を受け取って、人を裁くことを正しいとする兄弟姉妹がいるかもしれません。適切に、正しく人を裁き、量ることができると考える兄弟姉妹です。イエスの教える通りに考えると、もし本当に正しく人を裁くことができるなら、自分も正当に裁きを受けるので、よいでしょう。しかし、罪が内在するわたしたちは、人を正しく裁くことなどできません。その理由が三つ目の、3節です。罪深き人間は、自分の非に甘く、他人の非には不寛容なのです。このような人間が人を裁くと考えると、恐ろしいです。
では、どうすれば人を「裁く」ことを避けることができるのでしょうか。5節、「まず自分の丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」人を非難する前に、自分の非、罪を取り除きなさいとイエスは教えています。そうすれば、その時初めて、神の御心によって義とされますから、兄弟のために兄弟の罪を取り除くことができるようになるのです。
罪深き人間は、自分に甘く、他人に厳しいということを徹底的に自覚し、自分の非に最大限集中するべきなのです。これはすべてイエスが教えられたことです。そして、このような勇気を出し、努力する人は、謙虚になります。人のおが屑を見ても、自分の目の丸太に気づいているので、人を裁いたりしないのです。
イエス行動論要約
人を裁くな。罪深き人間は、自分に甘く、他者に厳しいため、不当に人を裁くことになり、その裁きがわたしたちに返ってくるからである。まず、自分の大罪、目の中の丸太を取り除き、謙虚になれ。義とされると、初めて兄弟の罪を取り除く実りある仕事をすることができるのです。
今日の試み
神の子であるわたしたちは、世俗的なもの、この世の汚らわしい産物を前にすると、嫌悪感を抱き、罪深いものとして「裁き」ます。それらが罪であることは間違いありません。しかし、わたしたちとて、誇れる人間ではないはずです。外のものの罪を「裁く」前に、自分を「裁く」ことが先です。自分がどれほど罪深い人間であるか、神様の前で、主イエスの前で、聖霊様の前で自分はどう映るのか、徹底的に考えてください。そのあまりにひどい罪深さを再確認すると、赦しを心から求めるようになり、謙虚になります。まずは、せめて神の子であるわたしたちは、わたしたち自身を「裁く」ことから始めましょう。
良くある疑問解消
「人を裁いてはならない」なら、明らかに人を裁いている裁判所は罪ではないのか?罪ではありません。裁判所は結局のところ、この世のものなので、罪深い人間の集まりですが、すべての裁きは法律に基づいて執行されるからです。法律は律法であり、神に与えられたものを基盤にしています。律法違反は厳粛に断罪される必要があり、裁判官が神によって用いられていると考えるのが健全です。はっきりと区別したいのであれば、人による裁きか、神に基づく裁きか、神による裁きか、というふうに分けることができます。一つ目は罪にあたり、その後は正しいものです。しかし、裁判官も、極悪非道の被告を前にし、当人の罪を断罪するためには、己の極悪非道ぶりを先に自覚する必要があります。
ブログ訪問、ありがとうございました。
神の栄光をほめたたえます。ハレルヤ!^0^
(画像URL:http://mrg.bz/9TSyOW)
神はわたしたちの謙虚さを見られます。
聖書要点引用
1節、人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
2節、あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
3節、あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
5節、偽善者よ、まず自分の丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。
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イエスの教えの本質と、謙虚さを学びましょう。
今回の御言葉の本質は、「隣人を自分のように愛する」ことです。
人を「裁く」とはどういうことでしょうか。裁判所がイメージしやすいと思います。当人の罪状を推し量って、裁くべきか否か、裁きの程度などを判断し、法律に基づいて罰を言い渡すところです。イエスの教える「裁く」とは、もっと広い意味合いを持ちます。権力や力によって人に罰を与えるというだけでなく、人を悪い者と「量る」ことも、「裁く」に含まれます。3節にその根拠があります。兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、自分の目の中の丸太には気づかないのです。つまり、他人の罪はすぐ分かるのに、自分の大罪を自覚していないということです。人のおが屑に注目し、人を量り、悪い者であると判断するのは、「裁く」に当たります。
ではなぜ「裁く」ことをしてはならないのでしょうか。罪は罪ではありませんか。イエスは三つの理由を教えています。1節、人を裁かない理由は、わたしたちも裁かれないようにするためです。2節、わたしたちは、自分の裁く裁きで裁かれ、量る秤で量り与えられるため、人を裁かないと、裁かれません。人を量らないと、量られません。
もしかしたら、この二つの御言葉を受け取って、人を裁くことを正しいとする兄弟姉妹がいるかもしれません。適切に、正しく人を裁き、量ることができると考える兄弟姉妹です。イエスの教える通りに考えると、もし本当に正しく人を裁くことができるなら、自分も正当に裁きを受けるので、よいでしょう。しかし、罪が内在するわたしたちは、人を正しく裁くことなどできません。その理由が三つ目の、3節です。罪深き人間は、自分の非に甘く、他人の非には不寛容なのです。このような人間が人を裁くと考えると、恐ろしいです。
では、どうすれば人を「裁く」ことを避けることができるのでしょうか。5節、「まず自分の丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」人を非難する前に、自分の非、罪を取り除きなさいとイエスは教えています。そうすれば、その時初めて、神の御心によって義とされますから、兄弟のために兄弟の罪を取り除くことができるようになるのです。
罪深き人間は、自分に甘く、他人に厳しいということを徹底的に自覚し、自分の非に最大限集中するべきなのです。これはすべてイエスが教えられたことです。そして、このような勇気を出し、努力する人は、謙虚になります。人のおが屑を見ても、自分の目の丸太に気づいているので、人を裁いたりしないのです。
イエス行動論要約
人を裁くな。罪深き人間は、自分に甘く、他者に厳しいため、不当に人を裁くことになり、その裁きがわたしたちに返ってくるからである。まず、自分の大罪、目の中の丸太を取り除き、謙虚になれ。義とされると、初めて兄弟の罪を取り除く実りある仕事をすることができるのです。
今日の試み
神の子であるわたしたちは、世俗的なもの、この世の汚らわしい産物を前にすると、嫌悪感を抱き、罪深いものとして「裁き」ます。それらが罪であることは間違いありません。しかし、わたしたちとて、誇れる人間ではないはずです。外のものの罪を「裁く」前に、自分を「裁く」ことが先です。自分がどれほど罪深い人間であるか、神様の前で、主イエスの前で、聖霊様の前で自分はどう映るのか、徹底的に考えてください。そのあまりにひどい罪深さを再確認すると、赦しを心から求めるようになり、謙虚になります。まずは、せめて神の子であるわたしたちは、わたしたち自身を「裁く」ことから始めましょう。
良くある疑問解消
「人を裁いてはならない」なら、明らかに人を裁いている裁判所は罪ではないのか?罪ではありません。裁判所は結局のところ、この世のものなので、罪深い人間の集まりですが、すべての裁きは法律に基づいて執行されるからです。法律は律法であり、神に与えられたものを基盤にしています。律法違反は厳粛に断罪される必要があり、裁判官が神によって用いられていると考えるのが健全です。はっきりと区別したいのであれば、人による裁きか、神に基づく裁きか、神による裁きか、というふうに分けることができます。一つ目は罪にあたり、その後は正しいものです。しかし、裁判官も、極悪非道の被告を前にし、当人の罪を断罪するためには、己の極悪非道ぶりを先に自覚する必要があります。
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